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   横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠  
   
横尾山
 





















ゲスト 山口耀久氏


ゲスト 小泉弘氏



















1983.12 






























2000.12


















今年(2007年)の7月でロッジを始めて丸7年になるそうだが、いま、その経営状態を長沢夫妻にたずねてみれば、なんとお答えだろうか。万が一にも「いつもお客様で一杯です、儲かって儲かって仕方ありません。横山さんがお出でになっても部屋は1つも空いてはいませんよ」などという返事が返ってくることはないと思うが、どんなものだろうか。(もし、間違っていたら、ごめんなさい)。

そんな具合で、この先、ロッジが立ち行かなくなって店仕舞いでもしようものなら大変だ。つねづね「遠くもなく近くもないところに、こんな手ごろな集まり場所があって、本当によかったねぇ」と大いに気に入っている私たち山の仲間も、明日から路頭に迷うことになる。これほど居心地よいアジトが、ほかのどこにあるだろうか。

そこで、何年か前から、皆が春秋に1度ずつ寄り合って、少しでも足しになるようにとやってきたのが、名づけて「森山の会」。つい先日の4月21,22日にも20人ばかりが集まった。事務方の三好まき子さんが「今度で10回目になります」といい、もう5年にもなるのか、年月のたつのは本当に速いものだと驚くいっぽう、ロッジも、また、それだけの間、なんとかやってきたわけで祝着至極の一言があるのみだ。

ところで、この会は「適当」を旨としている。春秋の適当な土日の2日間、初日は朝の適当な時間に韮崎なりなんなりの適当な駅に集合して、適当な山に登った後にロッジに行き、まず、近くの温泉で汗を流してからお神酒付きの夕食。食後は談話室に移ってゲストの話を聞いた後に再びアルコールともどもの歓談というのが、いつものパターンで、これまで山口耀久さん、島田和男さん、小泉弘さん、三浦衛さんほかをゲストとして招き、いろいろ興味深い話をしていただいた。なお、念のためにお断りしておくが、ゲストのお話だけは例外的に「適当」ではないということ。また、これまでゲスト不在のときも何度かあったが、そんな日はそんな日でアルコールと歓談よろしく、これまた適当にやっている。2日目は、これまた適当な山に登ってから最寄り駅で解散、鈍行なり特急なりで「好きなようにお帰りください」と、やはり適当だ。

なお、この会も、私が見るところだんだん高齢化してきたが、まぁ、あと何年かは適当に続いて、ロッジも適当にやっていけるだろうと思う。



前書きが長くなった。話を山に移そう。今年、2007年春の森山の会山行は予報はかんばしくなかったが両日とも降られることなく、まずまず眺めもきいて、無事、2つの山に登ることができた。初日が横尾山で2日目が霧ケ峰続きのカボッチョである。そのうちのカボッチョは次の機会にまわすとして、ここでは、とりあえず横尾山を書いてみることにした。

横尾山は、私にとっては、今回で5度目になる。

最初は83年の12月末の3日間、テント持ちの山行だった。同行は山田哲郎さん。初日は信州峠から横尾山に往復した後に信州側に下り、女山の下で幕営、2日はテントをそのままにして女山と高登谷山に登ったあとで、もう1泊し、3日目は信州峠へ登り返して「帰りがけの駄賃」に峠のすぐ上にある「夕日あたり」という小峰を稼いで帰宅した。2泊3日で小なりといえども4つの山に登って、まずまず満足だったが、なにしろテントが薄っぺらな夏用なのだから寒いの寒くないの。朝起きると、内側にはびっしりと霜がついていた。

この山行でよく覚えているのは、横尾山の頂上から八ヶ岳がぎょっとするほど大きく見えたこと。それに奥方から「横山さんのそんなお粗末なテントに寝るならば暖かい羽毛服をもっていきなさい」といわれた山田さんが羽毛たっぷりの、着込めばそれこそ高見山も同然にふくらんでいたことである。ただでさえ狭いテントのなかの四分の三くらいは達磨に手足がついたような山田さんが占領し、私たち2人は隅のほうに縮こまっていた。

次は99年5月、金山で行われた木暮祭に参加する際の「ついでの登山」で、大森さんと私たち2人は、韮崎からタクシーで信州峠まであがり、そこから往復した。五月晴れのよいお天気の日で、八ヶ岳もよく見えていた。黒森まで下って電話をすると山村正光さんの車が迎えにきてくれたが、それから8年がたったいま、山村さんはすでに彼岸の人だ。山村さんとは深田久弥さんが亡くなった1971年頃から親しくなり、何度か山へもご一緒した。危なっかしい林道を山村さんの決して安全運転とはいえない小型ジープに便乗して雨乞山へ登ったことなどは懐かしい思い出である。     

その後は、当ロッジができたあとの、いずれもロッジ泊りの山行になり、2000年12月、2002年3月の2回、それほど間をおかずに登っている。

2000年12月のときは、前日は寺田政晴君の車に乗せてもらい、まず、百蔵山へ登ってからロッジへいった。夕方になると東北は吾妻小舎の遠藤夫妻、それに国立の丹羽さんもやってきて、翌日は長沢君一家を加えて大勢の、かつ異色メンバーがそろっての横尾山登山になった。ただし、その日は寺田君は取材かなにかで飯田線のほうの山へ行き、彼だけが山頂の記念写真には写っていない。その寺田君も、いまは彼岸の人とは、一体どうしたことだろう。

私が最初にロッジに泊まったとき(2000年9月、中野英次さんも同道だった)は彼と一緒だったし、その後も森山の会を含めて少なからぬ回数、ともにロッジに泊まっている。ロッジではよく飲み、少々呂律がまわらなくなった口調で話がくどくなる酔態も、私が折りにつけ思い出す寺田君の一場面だ。

2002年3月は、大森、泉、三好、長沢の諸兄姉と同道だった。信州峠に雪が見られなかったのでスパッツをしないでいったら上には結構な雪があり、ズボンの裾をすっかり濡らしてしまったことをよく覚えている。また、一電車遅れた三好さんが韮崎から信州峠まで長駆タクシーで追いついてきたなど、ついこの間のような気もするが、それも、もう5年も前のことになるとは年月のたつのの速いのには本当に驚いてしまう。



さて、ここからが今回の横尾山で、4月21日、森山の会の初日に登った。天気予報は悪く、相当暗澹とした空模様だったが、幸い降られることもなくてすんだ。肝心の八ヶ岳をはじめ富士山、金峰山、南アルプスなど高い山は雲に隠れていたが、北側には眺めがきき、天狗山、男山、御座山がわりによく見えたのは嬉しかった。

これは家に帰ってからのことだが、私が「小さな登り下りが幾つかあって、いつもは長く感じる山頂近くが今回はそれほどでなかった」と話すと、家人も同じように思ったといい、「あのくらいならば、まだ、なんとか登れそうだね」と顔を見合わせた。

なお、今回、横尾山の山頂では東南に飯盛山に続く尾根を見ながら、大森さんや木根君が大いに食指を動かしていた。長沢君の週例山行で今年の4月にそこを歩き通したときは、休みを入れてだが9時間もかかったと聞いている。私はこれまで、その途中の木賊ノ頭や槍、丸山の3山は個別に登っているものの、尾根伝いに歩きとおすのは相当の長丁場になると恐れをなしてきた。いまとなってはなおさらで、前半後半と2回に分けて歩くくらいが精一杯だろう。

そして、今年か来年くらいのなるべく早いうちに歩いてみたいが、それには藪の茂りきらない5月半ばから6月初めにかけてが最上の季節になるだろう。その折には、またまた長沢君をわずらわすことは間違いなく、「なにぶんにも、よろしくお願いします」といまから頼んでおくことにしたい。
                                  (2007.5) 

                





















ゲスト 島田和男氏



ゲスト 三浦衛氏

























1983.12 


























2000.12






2002.3












丸山から飯盛山へ

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