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   横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠  
   
高川山
 

「長沢さんは道のある山を道のないところから登る、短い行程の山をわざと遠回りして歩く」と、ロッジ山旅の木曜週例山行のご常連がいっていたが、本当にその通りだと思う。

今回、中央沿線の高川山に登ってみて、心底、それを実感した。高川山というと、中央沿線近間の山、高さも1000ートルに欠けて低山の部類に属する山と私は認識している。ガイドブックにだって、初心者向きと明記されている山だ。ところが、いったん長沢君の驥尾に付して歩くと、これが長いの、なんのって。私の記憶ではごく簡単に登ってこられるはずの山なのに、今回は「こんなはずではなかった」と痛い足を引きずりながら下山するはめになった。そして思うに「長沢週例山行では低山が低山ではなくなる。歳を考えて、この先は充分注意しなくてはいけない。高川山だってエベレストなみになるのだから恐ろしい」。



私にとって高川山は今回3度目になった。初回は川崎精雄さん、望月達夫さん、山田哲郎さんとご一緒で、いまを去ること丁度30年の昔、1977年の1月に登った。確かその日はもっと先の大菩薩のほうへいくつもりのところ、車窓から見る空模様がかんばしくなくて急遽行き先を変更したと覚えている。どこかこの辺で適当な山はないかと眺めるうち、大月をでた辺りで高川山が目にはいって「あの山に登ってみようではないか」と初狩駅に下車した。なんとも行き当たりばったりで決まった山なのだから、その辺りの地図を持っている人は誰もいない。「なんなら、これで間に合わないかね」と望月さんが20万の1地勢図「甲府」をだしてくれたが、いくらなんでも、それではやっと高川山の山名が読める程度のものである。しかし、いつものように「山の方角だけ分かれば、なんとか登れますよ」との楽観論で歩きだせば、その通りに登れて目出度し目出度しの高川山初登山だった。

その昔は別として、当時、高川山は知る人ぞ知るの山であり、道もはっきりせず、もちろん満足な道標などは1本もなかった。しかし、その後いくらもしないうちに山田さんが『静かなる山』(茗溪堂/昭53)に取り上げてからは状況が一変した。ガイドブックにも多く書かれて広く知られるようになり、いまや中高年登山隆盛の時代を迎えては中央沿線有数の有名山になっている。

さて、今回の高川山は山田哲郎さんとともに私たち夫婦は日帰りで参加した。たまたま、その前日に山田さんが拙宅にみえた折り、私はどうしても高川山の開祖ともいうべき山田さんを誘わなければ失礼だと声をかけると、「もちろん、ご一緒します」との快諾を得た。そこで、先の1月下旬のある日、八ヶ岳の麓から遙々やってきた週例山行の皆さんと待ち合わせて、初狩駅を10時少し過ぎに歩き出したというしだいである。



それにしても、いつもながら前回の記憶はまったく消え失せ、お寺と墓地のわきを通っていくくらいはかろうじて覚えているが、あとはさっぱりだった。車道から分かれる登山道の入り口も、男坂女坂の分岐、大岩山の分岐も「前に、こんなところあったかしら」と首をひねるばかり。家人は「前とは違う道を歩いている」というが、果たして、そうだろうか。それに、高川山がこんなにきついとは、まったく覚えていなかった。前はもっと楽に登れた山ではなかったか。おまけに天気予報に反して一面の霧の中、よけい気勢があがらなかった。

しかしながらエベレストであろうと高川山であろうと終わりのない山はないのであり、なんとなく頭の上が薄明るくなってくると、先を行く人の「山頂だよ」という声が聞こえてきた。歩き出してから2時間はたっていなくて、やはり、これは低山の部類に属する山なのだろう。

山頂の周りは「そうだ、こんなところだった」とよく覚えていたが、今日は雪解けのどろどろで気分の悪いことおびただしい。それに、この山の一番のウリである富士山の大展望が皆無とは、どうしたことか。「予報はお天道様マークばかりだったのに」と皆が嘆いた。ただ長沢君一人は「時間もあることだし待ってみましょう。そのうち晴れてきます」と落ち着いたもので、しばらくすると、そのご託宣どおりに滝子山の上から青空が広がってきたから不思議である。富士もわずかながら雪の稜線をのぞかせいて、これも目出度し目出度しというところか。なお、山頂には雑種も極まれりという犬が住み着いていて、登山者の与える食料目当ての、なかなか有名な犬なのだそうだ。長沢君は「こんなおかしな姿形の犬では、捨てられたのも無理もありません」というが、できれば、この犬自身に氏と育ちを語ってもらいたいものである。

先週も帯那山から八幡山への週例山行に参加して、嫌というほど歩いた。そこで今回の高川山はなにも大月まで皆さんの計画に付き合わずに、途中から田之倉に下って無理をしないでおこうと来る前は考えていた。家人も「そのほうが無難だわ」といっていたのだが、さて、山田さんが「私は大月までいきますよ」といえば、また性懲りもなく、こちらもその気になってきた。山頂の指導標には大月をさして3時間とあるが、下りのことだし、まあ、なんとかなるだろう。

尾根は低いながら複雑に方向を変えている。いまはすっかり晴れて眺めが好く効くようになり、行く手があますところなく見える。あんなに遠回りをしていくのか、前途ほど遠し。リニア実験線と中央高速との二つのトンネルがくぐる尾根はひとかどのものであった。

陽は傾いて、色温度が下がっていく。正面右手に大きくなっていく菊花山もしだいに赤みを増してきた。「そろそろ終わりにしてもらいたいね」と家人と話すが、それからも大小幾つもの登り下りがあった。

やっとたどりついたのが、第二次大戦中に防空監視所が設けられていたと説明板がたつムスビ山で、ここまでくれば大月市街も目の下近くになった。やれやれと一休み。しかし、この手前から私は右膝が痛くなりだした。変形性膝関節症ながら、この何年かはだましだまし歩いてきたのが、ここで限界を越し悲鳴をあげだしたに違いない。でも、この先も歩かなければ終わらないわけで、大月の街中は足を引きずりながら歩くフィナーレになった。

山頂の指導標には大月駅まで3時間、私たちは12時半ちょっと前に歩き出して大月駅着は4時15分だった。途中、休みをいれたにしろ、結構、長く歩きでのある尾根だ。帰って2,3日しても膝の痛みは治まらず、結局はお医者に診てもらい、「これが効きます」とお勧めのヒアルロン酸の注射を週1回、5週続けて、いまは、なんとか落ち着いている。



追記 

高川山は、これまでも何回かガイドブックに取り上げられている。古いところでは昭和15年に登山とスキー社から出た松本重男著『中央線に添ふ山と峠』に初狩駅、田之倉駅からのコースが紹介されているし、戦後は渡辺正臣さんの『中央沿線の山々』(朋文堂・マウンテンガイドブックシリーズ・昭和38年)にも富士急行の谷村町駅から登り初狩駅に下る長いコースが載っている。よって、以上の文中で私は山田さんを高川山の開祖と書いたが、正しくは中興の祖とすべきかも知れない。






















































ヴィッキー



山頂から都留市方面を望む









登山道から菊花山(手前)



ムスビ山にて



































































ムスビ山より大月市街を望む

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