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冬季 信州武石峠より望める日本アルプス略図  中村清太郎 筆

横山厚夫さんが語るロッジ山旅の山と峠


武石峰と武石峠





































































































茶臼山








 東京市赤坂区高樹町20 別所梅之助
   紹介人 辻村伊助 高野鷹蔵

このように別所梅之助さんが新入会員として載っているのが、明治45年7月刊の日本山岳会の機関誌『山岳』第7年第2号。これを見ても別所さんは日本山岳会ができてまだ十年とたたないうちに入会した、ずいぶん古い会員であることが判る。また、この方の名は『世界山岳百科事典』(山と溪谷社/1971)にも載っていて、羽賀正太郎さんが以下のように紹介している。
   

べっしょ うめのすけ 1871〜1945 東京出身。東京英和学校(青山学院の前身)英語神学科卒業。 青山学院講師、日本キリスト教団教師になる。聖書を研究、人文地理学者であり、青山学院山岳部の初代部長になった。明治42年、東北の吾妻連峰に初山行、以後各地の山々を訪ねる。著書に『霧の王国』『山のしづく』のほか『聖書植物考』などがある。
   

なるほど、小島烏水さんや木暮理太郎さんよりも2つ年上の方だったのかと知るのだが、その別所さんが『山岳』の第10年第1号(大4・9)に「雪の武石峠」と題した紀行文を載せ、その年(何年と明記してないが、おそらく『山岳』同号発刊と同じ大正4年のことと思う)の年始めに松本から上田方面に越す武石峠に登った折の一部始終を克明に綴っている。概略は、次のようだ。

まず、元日に登ったときは空もどんよりとし雪も落ちてきたので、途中から引き返した。翌2日になると天気も回復、常念岳の鋭いピラミッドも見えるようになったので再起を期し、雪深いなかをなんとか峠にあがることができた。峠着は午後の3時近くになったと、ずいぶん時間がかかっている。

当時、武石峠の上には小屋があり「蚕の種紙を守つてゐる番人の爺さん」がいたので、別所さんはその老人に教えてもらい、かつ「中村清太郎氏が、ここで写した画の複写をもつてきたので、大部わかる」として、峠から見える北アルプスの山々一つ一つの名を紀行文のなかに列記している。
   

……白馬や、立山や、越路の方の峰には、雲が迷つてゐたけれど、有明山、燕岳、大天井、花崗岩の常念坊、そのそばから抜きでた槍、なだらかな南岳、低くなつた蝶ヶ岳、高い穂高、乗鞍、御嶽、木曽駒と、… …
   

なにしろ素晴らしい眺めであり、別所さんは大満足の筆致でその辺の文章を綴っているのだが、それもそのはず、別所さんの目的は峠を越えてどうこうというのではなく、ただ峠の上から北アルプスほかの山々を眺めることにあったからである。そして、この紀行文の末尾には、本文よりも一段字を小さくはしているが、「武石峠へいこふといふ心を起させたのは中村清太郎氏の画、途を中央線にさせたのは小島烏水氏の文のおかげです。ここでお礼を申しあげておきたうございます」という丁寧な謝辞を付け加えている。

私は、このような紀行文を読んで、そうか、別所さんも、あの中村さんの展望図に魅せられての武石峠だったのかと知り、すっかり嬉しくなった。

   

さて、ここにいう中村清太郎さんの展望図とは『山岳』第5年第3号(明43・11)の折込み付録「冬季 信州武石峠より望める日本アルプス略図」のことであり、これが実にたいしたものなのである。長さ約135センチ、幅14センチほどのなかに左端の富士山から右に白馬岳までを延々と描いた石版多色刷り。克明に雪の山肌を描き、ほとんどの山に山名と標高の数字を書き入れている。

それに付け加えて中村さんは『山岳』同号の雑録欄にその展望図の解説を載せ、本年、つまり明治43年1月の初旬に松本側から武石峠へ登り、峠の少し下でこの展望図を描いたと説明している。さらには「……山岳観望上、特に日本アルプスの観望に於ては、比類希なる地点なり、従て吾人にとりては見逃し難き峠たるなり」とまで書き、武石峠の展望を絶賛している。

私は、この展望図を見たり解説を読んだりしたときから武石峠に憧れ、呪文のように「たけいしとうげ、たけいしとうげ」とその名を唱えていたのだか、なかなか実際には登る機会がなくて時が過ぎていた。

そこで、その憂さばらしにと試みたのが図上登山であり、広げる地形図は現行の2万5千図「三才山」と、藤島敏男さんから遺品として頂戴した明治43年測図の5万図「和田」の2枚。

−−なるほど、中村さんや別所さんと同様に松本側から登っていけば、その途中からもアルプスの眺めが楽しめること間違いないだろう−−

なお、この新旧の地形図を見ているうちに、峠の位置が昔と今では違っていることに気づいた。古い「和田」では1821と標高の数字が記される地点に「武石峠茶屋」の書込みがあり、一方、新しい2万5千図「三才山」には、それよりも北西に750mばかり、等高線を読んで標高約1700mのところに武石峠の名が記入されている。そしてなによりも大違いなのは車道が通じているかいないかであり、現在ではハイウェイまがいの大道が峠を越している。

   

今年(2005年)6月、ロッジ山旅に泊まった翌日に美ヶ原に登った。車で山本小屋まであがったあと、塩クレ場から茶臼山往復、さらに王ヶ頭まで足を伸ばし、その北斜面に腰をおろして昼食とした。

あいにく、この日は雲が低迷して風も強く、あまりよいお天気ではなかった。視程も伸びず、先ほど登った茶臼山さえときには雲に隠れるくらいで、もちろん北アルプスの大観など望むが無理というもの。しかし、西北に2キロ少々の武石峰は指呼の間的によく見えて、「そうだ、あの陰のほんの向こうに武石峠があるのだ、今年のうちには、ぜひ登らなくては」と、ますます想いを強くしたのだった。

そして、それからいくらも経たない9月の初旬。ついに望みを達する日がやってきた。例によって例のごとくにロッジ山旅に夜を過ごした翌日は先の美ヶ原とは大違いの好天に明けて、中村さんや別所さんの登った雪の季節とは異なるにしろ、これはどう考えても武石峠日和としかいいようがない日ではないか。長沢君の車は、早朝、一路、信濃路を北上した。

羊腸の道をあがりきって、まず、武石峰のほうにいくとすぐに駐車場があり、ここが武石峰の登山口らしい。私たちも車をとめた。

すでに「あぁ、いいねぇ」を連発する、北アルプスの大展望。長沢君、家人、私の三人はにこにこ顔で草尾根の円丘を登った。まず登りついたのが「思い出の丘」と標識のたつ頂で、抜群の展望台なのはよいとしても、そんなアマッチョロイ山名はいただけない。誰がつけたか知らないが、見えている槍や穂高にも、こちらが恥ずかしくなるような命名ではないか。

と、まぁ、そんな文句も、三角点と石囲いのなかに仏様の鎮座する武石峰山頂に登り立てばけろりと忘れて、また何度か感嘆の言葉を繰り返した。雲がところどころに山脈を隠して、それが残りの山々をより高く見せている。北アルプスとは反対側の浅間山も立派だし、なじみの王ヶ頭もなかなか、間近い鉢伏山から二ツ山への尾根続きもいうことなしであった。

駐車場へ戻って長沢君がいうには、「まだ時間が早いから、これから武石峠を廻って美ヶ原をドライブし、霧ヶ峰の池のクルミへいってみませんか」。願ったり叶ったりとは、このことをいうのだろう。「あぁ、結構ですね」と私は二つ返事だった。

車だと上田側へ下り気味にほんの数分、2万5千図「三才山」にここと記された現在の武石峠は、車道が三叉するだけのなんの変哲もないところだった。もちろん、中村さん、別所さんの頃とは場所が違うのだろうが、それにしても、それにしてもの殺風景なところだった。廻りを木立ちに囲まれ、たとえ葉の落ちた季節でも展望皆無のような地形だった。しかし、私は先ほどの武石峰の眺めに十分満足していたので、それほど失望はしなかった。これだけ時が経ってしまったのだから、昔のままを願うのは無理というものだろう。むしろ願うのは、残雪でも新雪でもよいから北アルプスの山々が白く輝く季節に、もう一度、武石峰に登ってみたいということで、長沢君に次回もよろしくと頼むと、彼は「まかしておいてください」と実によい返事だった。あぁ、なんて楽しみな。 

終わりにあたって、いま一度、先に引用した別所さんの中村さんと小島さんへの謝辞を読み返していただいて、その「途を中央線にさせたのは小島烏水氏の文のおかげです」というくだり。これは多分、烏水さんの「冬季日本アルプス観望汽車旅行」を読んでのことだろうと思う。それは『日本アルプス』の第三巻(前川文栄閣/明治45・7)に収録され、中央線の車窓から見える南アルプス、八ヶ岳、北アルプスなどを魅力たっぷりに紹介している。別所さんはこの記述に教えられて中央線に乗ったに違いない。

別所さんは私よりも二世代ぐらい前の方だが、ここにも山岳展望愛好の大先輩がいらっしゃったのだと、思わず微笑んでしまうのである。  (2006・1)


追記(2006.7)

最近読んだ古本の1冊で、別所梅之助さんのお名前に読みあたり、すっかり嬉しくなったので、ここに蛇足を承知の追記をしておきたい。本はなじみの古書店の100円均一棚で見つけた『映画字幕五十年』(清水俊二/早川書房/再版・昭和60年)である。

私は学生時代、ほんの短い間だが、アルバイトで外国映画に字幕をいれる会社で働いていたことがある。といっても、ほんの使い走りをしていたにすぎないが、以来、映画の字幕にはひとかたならぬ興味があって、その第一人者だった清水俊二さんの本となれば、なんで読まずにいられようか。この本も初版出版早々に購入して読んでいたが、いつの間にか、わが家の本小屋から姿を消していた。よって、このたび均一棚で再会したのをよい機会に、あらためて読んでみることにした。

覚えている個所もあり覚えていない個所もありで、別所さんの名前が出てくるところなどはすっかり忘れていた。そこで、えっ、あの武石峠観山の別所梅之助さんと、また、こんなお門違いの本でお会いするなんて。



『映画字幕五十年』のP.216〜18にかけての記述。「バイブルの話はうまくない」という小題がついて、時は昭和16(1941)年12月8日、なにしろ太平洋戦争開戦の日のエピソードなのだから、余計、気をそそられる。

当時、清水さんは、時節柄外国映画の仕事が減ったために映画会社から六興商会出版部という出版社に移り、編集部長の職についていた。

そして、日米開戦の日、たまたま青山学院の別所梅之助教授を訪ねる約束があった。別所さんは本来は国文学者だが、聖書に出てくる植物に詳しいと友人から紹介され、それを1冊にまとめてもらう企画をたてていたのである。写真と絵をふんだんに入れて、楽しい読物にしょうと清水さんは考えていた。

ところが、初対面の挨拶が終わって別所さんがいうには、「お話は宮本君からうかがっていますが、アメリカや英国と戦争が始まってはバイブルの話はうまくないでしょう」。 

以下を、清水さんは、次のように書いている。

 いわれてみればそのとおりだった。出版を始めながらこんなことに気がつかないのは迂闊な話だ。大本営発表のラジオ放送を聞きながら、聖書の植物をしらべている国文学の教授に会いに行く。物語中に出てくるような状況に自分自身をおいて、現実を忘れていたのだ。アメリカと戦争を始めたことが私の意識の中にはっきり入っていなかったのだ。
 
私はいまでも、あの十二月八日の朝の澄み切った冬の空を仰ぎながら 別所教授に会いに行った自分をときどき思い浮かべる。














































































































武石峠

   

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