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「長沢ロッジ」の山々
   横山厚夫

少し前までは山梨県北巨摩郡大泉村、今は山梨県は変わらないにしろ流行りの町村合併のあげくに北杜(ほくと)市というおかしな名の市に昇格して、市内大泉町西井出8240−4012、長沢洋と美幸夫妻が「ロッジ山旅」を始めたのは2000年7月のことという。私と家人が最初に泊まったのは開業後いくらもたたないその年の9月中旬であり、以後はほぼ1ヶ月に1度くらいの割合で出かけ、ロッジでの談笑や食事を楽しむとともに長沢君に案内を頼み、遠近の山々に登って今にいたっている。なお、私が長沢夫妻と知りあったのはロッジ開業よりも2年半ばかり前の98年1月のことであり、その当時、夫妻はまだ御坂峠の茶屋で働いていた。

ちょうどその頃、私たちの仲間数人は甲府の山村正光さんにお膳立てをお願いして甲州の山を歩くのを正月早々の恒例山行としていた。たまたま98年の1月は笹子を振り出しに一山越して金川の谷は十郎橋近くの民宿に泊まり、翌日は旧御坂峠にあがったあと御坂山を越して御坂峠にいった。

道々、山村さんが「峠の茶屋に山岳会の長沢という若い者がいるから、お茶を呼ばれていこうではないか」といい、この山歩きはなにからなにまで山村さんまかせだから、こちらは嫌も応もない。ちなみに山村さんのいう山岳会とは日本山岳会のことで、当の山村さんはもちろんのこと、同行の大森久雄、山田哲郎、山本健一郎、泉久恵の皆さんもそろって同会の会員だし、私もそう。

茶屋で顔をあわせた、その日本山岳会員という人物は歳の頃40くらいか。山村さんが私たちの名をいうと、彼はえっという顔をした。なんと「大森さん、横山さんの本を読んでいます」といい、他の諸兄姉も会報などで「お名前を存知あげています」というではないか。大森さんの『本のある山旅』ばかりでなく、私の本まで持ち出し、ご署名をといわれて面くらった。 

これが長沢君を知ったきっかけであり、文通の始まりである。今になると宿泊業のビジネス多忙にかまけてそれほどでもないが、その当時の彼は手紙魔といってよいほどの筆まめだった。なにかにつけて分厚い封書がくる。私は私で他人から便りがくると放っておけない性分だから、その都度返事を書く。長沢君とも少なからぬ手紙のやりとりがあったと覚えている。

やがて、そのうちの1通に「今回、長年の宮仕えをやめて小海線甲斐大泉駅近くに山登りの客を主にしたロッジを始めることにしました。ついてはその名を横山さんの本の題名『中央線/私の山旅』にあやかって「ロッジ山旅」としたいがどんなものでしょうか」。驚くとともに、身に余る光栄だと思った。ただし、近頃、私たちの仲間うちでは誰も「ロッジ山旅」などと面倒くさくいうものはいなくて、みな「長沢ロッジ」と簡単にすましている。なお、長沢君の日本山岳会入りは山村さんの紹介だそうで、彼が山好きよりもなによりも酒が飲めると知り、「それならば資格がある。君も会員になれ」といったという。よって彼は1995年8月入会の会員番号12069と会員名簿に出ている。

こうした茶屋での出会いから約6年、あの時はまだ生後3ヶ月でお母さんに小さく抱かれていた令嬢の溪ちゃんが小学校に通うまでになった。近頃は「あれ、これはもう立派な娘さんではないか」と目を見張るような容姿ならびに言動に驚くことがしばしばなのだから、こちらが歳をとっても不思議はない。ロッジ一泊の軽い山歩きがちょうどよくなって、まことにタイミングよろしく、そう遠くないところに好い宿ができたものだと天の配剤に感謝している。夫婦二人暮らしの当家にとっては家人の息抜きにも都合がよい。上げ膳据え膳の仕出し付別荘の趣がなきにしもあらずだし、なにかの会合にも手頃である。大森さんをはじめとする皆さんも「あそこがつぶれちゃ困るよねぇ」といっている。精々ご利用のほどを。

と、まぁ、以上のように「ロッジ山旅」ならぬ「長沢ロッジ」とのなれそめを簡単にすませて、これからが本番である。

題して「長沢ロッジの山々」とは、これまでにロッジに一泊して登った山々のうちで、とりわけ私好みの山を列記するものである。ロッジに泊まる方々の、どこぞの山へいこうかと思案される場合の参考になれば幸いだ。ただし、なかにはあまり大勢の人が登るようになっては顔をしかめる、そっと静かにしておきたい山もあるので、どうか、その辺の手加減はよろしくとお願いしておこう。なお、私はマイカーを持たないから、みな同行の友人の車か長沢君の車に乗せてもらっている。もし、自分の車を持てば、もっと行動範囲は広がるに違いない。いずれにしろ、なにごとも長沢君に相談されるとよいだろう。

山はアイウエオ順に並べ、括弧内は標高(三角点、標高点のない山は等高線から読み取った数値)、2万5000図地形図名となっている。


・荒船山(京塚山/1422.5m 「信濃田口」「荒船山」)

04年1月から長沢君は毎週1回の山行を企画し、地元の友人や宿泊客の希望者とともに遠近の山に出かけている。その週例山行に加わり05年3月に登った。荒船不動からの一般コースをたどり京塚山、艫岩の往復だったが、他に登山者はなく、雪も適当にあってまことに楽しかった。ただしロッジからだと登山口の荒船不動までがなかなかの長丁場の運転だと思ったが、長沢君は「このくらいはへっちゃらですよ」といっている。車を持つものと持たないものとの感覚の違いであろう。
・蟻ヶ峰1978.6m 「居倉」) 

『山の本』四号(1993・6)に望月達夫さんがこの山の紀行文を載せている。私はそれを参考に03年6月に登った。望月さん同様に三国峠を出発点とし、旧三国峠をへて西に天狗山、男山へと続く長い尾根をたどって約2時間半で山頂に達した。途中の林がよく、まずまずの踏跡があった。静かなる山志向の通人向きの山。山頂の展望も悪くはない。私が登った日は晴れてはいたが、やっと八ヶ岳が見える程度の霞かげんだった。
・石ッコツ(1640m 「瑞牆山」)

信州峠の東北東約1200m、長野県と山梨県の県境稜線上の小峰。山名は長沢君による。地形図にはこの山のわずか東の尾根を越える破線路が記載されているが、いまは廃道のようだ。私達は、まず長野県側からその破線の越す鞍部付近にあがった。もちろん、その辺には踏跡も明確ではなく、長沢君の先達よろしきを得ている。しかし、いったん尾根に乗れば踏跡的な踏跡もあり、それをたどって石ッコツを越えて信州峠まで歩いた。途中、長沢君のいうことには「この辺りは横山さん好みのところでしょう」。いかにもしかり。眺め広々のおおらかな尾根上をいくときが私の山上至福の時間なのである。04年4月に登ったときには、残雪の八ヶ岳が物憂い陽春の空にくっきりと浮かびあがっていた。
・稲子岳(2380m 「蓼科」「松原湖」)

白駒池入口−白駒池−にゅう−稲子岳−中山峠道途中−ミドリ池−稲子湯の順で歩いた。03年6月の下旬、まことに登山日和の好日。にゅうの頂では展望を楽しみ、稲子岳の山頂付近の砂礫地ではコマクサの群落を愛でた。ミドリ池から稲子湯までが長かったのを覚えている。長沢一家も同行し当時6歳にもならない令嬢のよく歩くのには感心した。

・御陵山(1822.4m 「御所平」)

三国峠から西に蟻ヶ峰、天狗山、男山と続く長い尾根上にある。山頂には社もあって眺めもよい。オミハカなんてあまり食指の動かない山名だが、長沢君の先達で登ってみれば「これはよい山」と感心した。川上村は千曲川の右岸、馬越峠を越す車道を幾らか登ったところから送電線の巡視路に取り付き、それを直登すると割りに簡単に尾根にあがる。あとは、その尾根伝いに東にいけば露岩のある山頂だ。奥秩父の山波が千曲川の谷をはさんで高くどっしりと横たわっている。
・笠無(1475・7m 「谷戸」)

最初に登ったのは85年4月で、まだ、ロッジができる大分前だった。西の海岸寺峠からやや長い尾根伝いにいったが、ロッジを利用するようになってからは北側の樫山峠まで車に乗せてもらって楽をするようになった。四季の雑木林が美しい山で、展望は山頂から少し東によった岩峰にあがると立派なものである。南に大尾根峠まで尾根を歩くのもよいだろう。尾根上のところどころには露岩があり、そこには昔の信仰登山の石碑が見られる。ただし大尾根峠近くになると踏跡もあやしくなってくる。それを承知の方には、お勧めコースの一つだ。
・貫ヶ岳(897・3m 「篠井山」)

この山を公共交通機関のみで東京から登りにいくのは大変だ。交通の便がまことに悪い。日帰りでは無理ではないだろうか。そこで長沢君の週例登山に便乗させてもらった。1日目には甲府盆地の北の鶯宿峠付近を歩いて、その夜はロッジ泊。2日目に長駆富士川ぞいに南下した。山自体はまずまずだが、こうした交通の不便な山に登れたのも週例登山のお陰である。ほかにも週例登山に加わった山には04年9月の七面山があるが、そのときは韮崎駅で拾ってもらって登り、山頂の敬慎院に泊まった。
・霧ヶ峰(山彦谷北ノ耳1829m 「霧ヶ峰」)  

ご存じ霧ヶ峰だが、一般コースよりももう一回り外周を歩くほうが魅力的だ。出会う人も格段に少なくなる。八島高原駐車場から八島ヶ池の縁の木道を歩き、奥霧小屋の付近から左に入って、まず男女倉山をめざす。その後はおおらかな尾根をたどって山彦谷北の耳、南の耳、車山の肩を経て出発点へ戻れば楽しい高原の一巡コースとなる。展望抜群で、ニッコウキスゲの花時がお勧め。ガイドブック定番の物見岩、蝶々深山経由のコースよりもずっとよい。
・高登谷山(1845・9m 「御所平」)

一般には長野県の川上村、黒沢川の支流南沢ぞいの別荘地から登る。それも悪くはないが、一味変えて北尾根を登ったほうが気分がよろしい。同じ川上村内だが千曲川ぞいに奥に入り、支流の高登谷沢を遡ってのちに北尾根に取り付く。地形図を読み送電線の巡視路を使っていったん尾根に乗ってしまえば、あとは踏跡の一本道。車を登り口においてきた場合でも山頂を越してから高登谷沢の上流におりて巡回コースとすることができる。沢ぞいには林道があり、それをぶらぶら戻ってくる途中には美しいシラカバ林があってまことによろしい。北に向き合うヤクボの頭もそうだが、アプローチにはまず地形図をよく読むことが肝要で、あとは長沢君によく聞くこと。
・高松山(1667・六m 「霧ヶ峰」)

寺田政晴君が「霧ヶ峰近くの秘峰」といって目をつけ、最初は彼の車に乗せてもらって東京から日帰りした。04年6月のことだが、さらにその年の12月に再度長沢君と登っている。その折には東に星糞峠を介した虫倉山にも登った。一言でいえばまったくの私好みの山で、いうことなし。北アルプスの眺めもよくて、すっかりうれしくなってしまう。だから、このような山はそっとしておきたいので紹介もこれくらいにとどめておこう。
・木賊山(1770m 「茅ヶ岳」)

地形図に山名の記入はないが、木賊峠のすぐ東にあるので仮に木賊山としておく。この山ばかりではなく木賊峠の周辺には小振りながら私好みの山が二、三数えられる。車での峠越えの途中の「ついで登山」的に立ち寄るには絶好だ。峠のほんの近くの1755m峰には袴腰の名があり、これは山村正光さんの著書『富士を眺める山歩き』(毎日新聞社/01)に取り上げられている。そして、ドライブついでに登れる山であり、そんなズクナシ登山もたまには許されるだろうとも山村さんは書くが、この木賊山もまさにそうした山の一つである。木賊峠の南にもう一つ長窪峠があり、そのまた南上の1700m無名峰も私好みの山だ。
・斑山(1115・1m 「谷戸」「若御子」)

私は二度ほど登ったが、正直いって登ってそれほど面白い山かどうかは保障の限りではない。松茸の止め山でその季節に無断で登ると罰金を取るという恐ろしい看板がたっている。望月達夫さんと岡田昭夫さんの共著『藪山辿歴』(茗溪堂/1988)にも載っていて、望月さん一行は1985年1月に登っている。当時、望月さんは70歳になったかならずのお年頃であり、こうした甲州の人気のない山に岡田さんと一緒に実によく登っていた。同書には、この付近の山として他に乾沢ノ頭(1224・6m)、兎藪(1449・1m)、前掲の笠無(1475・7m)などが見られる。斑山に登るたびに望月さんと同行した中央沿線の達沢山、兜山、八幡山などが懐かしく思いだされるのである。

・丸山(1678m 「谷戸」)

飯盛山の東南の尾根続きにあり、地形図に山名の記入はない。小海線沿線一の有名山飯盛山にハイカーが蝟集する日でも、この丸山には人っ子一人いないことを請け合ってもよい。西南に2本の尾根があるので、そのどちらかを登りどちらかを下りてくるとよいだろう。02年11月とその翌年の5月に登っている。八ヶ岳ばかりではなく、山頂の東側の笹原からは南アルプスや奥秩父の山々、富士山などがよく見える。これからも繰り返して登りたい山の一つだが、登り下りがすこぶる急だ。
・ヤクボの頭(1664・4m 「御所平」)

高登谷山の北にある、やや小振りな山。高登谷山北尾根と同じように送電線の巡視路を使って取り付く。山頂南側近くまで巡視路をたどり、それが右に分かれたあとも踏跡がある。近頃、長沢君一行が頻繁に歩くようになり、踏跡もひところよりはずっと明確になってきたようだ。三角点は特徴のない雑木林のなかで、そこから尾根通しにしばらく下り気味にいくと古びた木造の社があり、すぐ先が露岩となってすっぱり切れ落ちている。ここが八ヶ岳の好展望台である。長沢君が同道のときにはわずか戻った岩場の間を南に下ってもよいが、そうでなければ、全コースをおとなしく往復するのが無難である。
・八柱山(2114・3m 「蓼科」)

しいていえば北八ッの一峰だろうが、こんな山へわざわざ登りにいく人は少ないのではないだろうか。私は長沢君に先達してもらい、車を麦草峠におき雨池経由で往復した。山頂に無線施設があるのはちょっと興ざめ。だが、こんなところから荒船山が見えるのかと妙に感心した覚えがある。02年7月の登山。戻り道は雨池から麦草峠への登りが長かった。
・横尾山(1818・1m 「瑞牆山」)

信州峠越えの車道が拡幅舗装されると登る人が格段に増えた。「昔はよかった、静かな山だった」と嘆いても、いまさらどうしようもない年寄りの繰り言である。よって冬から春先の雪のある季節のウィークデイに登ることにしよう。山自体はけっして悪くはない。のびやかな尾根を前後左右に眺めを楽しみながらいけば、八ヶ岳がぎょっとするくらい大きく姿を現わす山頂が待ち受けている。だが、そこで「山梨百名山」の大標柱が目障りだと憤慨するのも、また、年寄りばかりであろう。
・臨幸峠(1500m 「信濃中島」)

その昔、日本武尊が越えたといい、地形図でその峠道の破線を見るたびに、どんな峠かと長く憧れていたのが、つい先日(05・5)、この目で見てくることができた。最寄り駅は小海線の佐久広瀬だからなかなか行きにくい峠で、やはり長沢君の車に乗せてもらってこそである。ところが実際にいってみれば、道は消え、急斜面をやみくもに登るはめになった。また、登りついた峠そのものも落葉松林のなかのこれといって特徴のない尾根上であり、古びた由緒書のブリキ板が一枚が木に打ちつけてあるだけだったが、長年の望みがたっせられ、私は嬉しかった。ただし、私のような思い入れのない人にはけっしてお勧めはしない。「なんだ、こんなつまらないところか」の一言があるのみだろう。
・鷲ヶ峰(1797・9m 「霧ヶ峰」)

最初にこの山に登ったのはもう十年以上も前で、そのときは和田峠から鷲ヶ峰、八島湿原をへて白樺湖まで歩く長丁場の日帰りだった。その後、03年の初秋、ロッジ泊の二日目は快晴に恵まれ、オーナー、すなわち長沢君同道で八島高原駐車場から往復した。道々で見下ろす八島ヶ原湿原、遠くの沖天には八ヶ岳や南アルプスの眺めがすばらしかった。鷲ヶ峰だけではあまり時間はかからなかったので、さらに天望台に車をすすめ三峰山(1887・4m)を再訪した。三峰山も私好みの山だ。


以上の16の山と一つの峠は05年5月現在のもので、これからもロッジを起点に登ってみたい新規の山はもちろん、再訪や再々訪の山がそれこそ星の数ほどあって切りがない。よって、当分、ロッジ通いが続くことは間違いない。

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