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 山の気
            
浮世の義理でやむをえず大勢で山を歩いたり人でにぎわう山に出かけたりもするが、本来私はそういった山歩きを好まない。

独りか少人数で、人けのない山を歩くのを好む。山では山の気をこそ感じたいと思っている。

では山の気とはいったい何か。はっきりとわからないのが気の気たる所以だが、おそらく人智を越えた、永遠を感じさせる何物かであろう。人が死から逃れられない以上、永遠は文字通り永遠のあこがれである。逆にいえば永遠を想うとき人は死を考えないわけにはいかない。

かつて死は身近にあった。夜になるとそっと背中に忍び寄ってきた。いうまでもなく生と死は相対的で、どちらかひとつだけがあるわけではない。生の数だけ死がある。それは今でも変わらないはずだが、近代文明は生ばかりを謳歌させ、死を日常から遠ざけてしまった。要するに文明は自然の脅威を取り除こうとしたのである。死がその象徴だが、ついにそれは撲滅できず、病院の片隅に追いやった。

文明は一方で自然を希求する人を生み出しもした。近代登山の発生である。これは一種の矛盾で、とどのつまり登山は矛盾に発している。
俗に「はまる」というが、登山はこの矛盾がゆえに「はまる」遊びの最たるもので、歓喜の中に毒をはらむ。毒とは死の影をいう。この毒には麻薬性がある。弱い麻薬で物足りなくなればいずれ死に近づく。登山は生命の讃歌だが、かたわらにはいつでも死が寄り添っている。ゆえに実は不健康である。ただし不健康は悪い意味ではない。

最先鋭の登山家が味わう山の気は極端に死を感じさせるものだ。山野井泰史氏は、人跡未踏のヒマラヤの岩壁を独り攀じるのを「隔絶された感覚がたまらない」と表現していたと私は記憶している。人界からの隔絶が強まるほど死は近くなる。ハイカーが歩く、動物や植物などの生命体に満ちた山より、岩や氷雪だけしかない無機物の山が死に近い、すなわち永遠を感じさせるのは明らかで、彼らがそこを目指すのは当然といえる。彼らにとっての山の気とは死の匂いに他ならず、生の実感は死の匂いを嗅ぐときにしか得られない。

だがそれを極端というからには、私のようなハイカーが山を歩くときにも、わずかながらでも死への畏れ、そして永遠へのあこがれがあると考えなければならない。山を目指す人には程度の差こそあれ等しくこれらがある。

私は山の中でぼんやりと思う。私はいったいどこから来て、いったいどこへ行くのか。むろん山は何も答えはしない。だが気配は感じる。それが私にとっての山の気だろう。それを感じたくてまた登る。徒労かもしれない。

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