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東京附近山の旅(昭和9年・朋文堂)より

言論の不自由

誰でも初心者のときはガイドブックの世話になるもので、むろん私も例外ではなかった。それが成り行きで自分が書く側になり、数冊を担当して、はや十年以上が過ぎた。
 
そうなる以前から、山に登ればその山の過去に興味が湧いて、古書店で旧いガイドブックを見つけたら買うようにしていた。今現在のことは自分の目で確かめられるが昔のことは文献や写真などで知るしかない。当面の便宜には役立たなくとも読んで愉しいのは旧いほうである。
 
ヴィジュアル重視で文字数の少ない現代のガイドブックにそれらの知識が役立ったわけでもない。しかしそういった蓄積は曰く言い難い好影響を文章に与えるものである。
 
関わっているガイドブックのひとつが装いを新にしたとき、ページの割り付けが変わって写真のスペースがさらに増えた。全体の面積は変わらないから文章を削らざるを得ない。まさか肝心の道案内を削るわけにもいかないので、旧版では書いた冗談めかした表現はほとんど姿を消すことになったし、ごくわずかにあった好悪についての表現も削ることになった。
 
好悪とはいってもここでは「悪」についてのことで、つまりは山にあった建造物について否定的な私見を書いたのである。この箇所には編集部から表現に配慮すべきではないかという意見が出たが、ささいなことだと一蹴したのでそのままになった。しかし新版では結局削除した。当たり障りがなくなった分、文章は無味乾燥になってしまったように思う。
 
文字がほとんどだった戦前のガイドブックを読むと、私の書いたことくらいで「配慮を」などとは笑止千万な表現が多々あって興味深い。以下に数例を要約して挙げてみるが、用字用語は現代的に書き換えた。
 
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 「到着が遅くなるが、間明平には齋藤屋という貧弱な旅館が一軒あるから、そこを叩き起こして泊めてもらおう」
 
 「鳥澤あたりで仕入れた牛肉は山で包み紙を開けると往々にして馬肉などに化けているからご注意願いたい」
 
 「達磨石には茶店があって、休んでいると茶を出してくれるので、なんと親切なと感激していると代金を請求されるから気をつけよう」
 
 「三ツ峠開祖の碑を谷底に落とした馬鹿者が出たが、いずれ発狂するに違いない」
 
 「小菅の村々が寂しくうずくまって文明から忘れられた寒村として余命を脈打っている」
 
 「炭焼き夫婦の家に泊めてもらえばいいが、家といっても炭焼きの家だから大したこともない」
 
 「浅間山のお鉢巡りでは火口底に心中した若い男女の遺骸を見ることもあるそうだが、あのものすごい地の底を見たのではとても天国に行けそうには思えない」
 
 「石丸峠の名の由来になったという、男子の賜物にそっくりの石マラは、どこかの馬鹿野郎に破壊されて見る影もない。その者は罰があたって一生不具者になってしまったと聞く」

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とまあこんな調子なのだから愉快だ、と言ったら、あなたはこんな文章を愉快だと言うのか、これで傷つく人があることに考えが及ばないのかとたちまち抗議を受けそうな昨今の敏感な世の中である。旧いガイドブックなど復刊されることはないが、もしされるなら、例の「今日の人権意識に照らして不当不適切と思われる語句や表現があるが云々」といった文章が必ずや添えられるに違いない。
 
昔の邦画を観ていると、台詞が突然途切れることがある。差別的な言葉があったのだろう。しかし今時の映画はその昔の人が観たら卒倒しそうな映像に満ちているではないか。音楽にしろ、かつては騒音にも例えられたロックをうるさがる人はいまや少ない。となると、人は目や耳から入ってくる感覚的なものには馴れても、言葉に関してはいよいよ傷つきやすくなるらしい。
 
確かに、身分制度がまだ色濃く残っていた時代にはたいして問題にならなかった言葉や表現が現代にそぐわないのはあたりまえかもしれぬ。しかしそれにしても、その当時の作品であることが明白なのにもかかわらず、前述のような弁解めいた文章をわざわざ添えたり音を消したりしなければならないとはいったい誰に対する遠慮なのだろうか。
 
前掲した例にも笑いの要素があるが、笑いの背景のひとつに差別があるのはジョーク集を少しひもといてみればわかる。これは人が人種や国や宗教やその他数限りない部門(社会)におのずから属し、結果、好むと好まざるにかかわらず排他的な傾向を持つことによる。その意味であらゆる意見は多かれ少なかれ偏見で、それを理解したうえで異なるセクトの人間に心遣いをするのが礼儀の一種だった。
 
「人の命は地球よりも重い」といった類に、その通りだという素振りをするのも礼儀である。ところが民主主義の爛熟にともなう人権意識の高まりで、このような、嘘に決まっているのに嘘とは言いにくい言葉を礼儀として肯定するのではなく、本当にそう願望する人が現れた。排他思想は平等の名の下にしりぞけられ、身内の冗談だとわかっているのに眉をひそめるようになった。身分に尊卑なく人格に高下なく、すなわち人の命に差別がないという主張は大衆の耳に心地よい響きを持つからである。
 
礼儀上での正論を本気にされると挨拶に窮する。手をこまねいているうちにこれらの正論たちは表通りを堂々と闊歩して、反論が襲いかかろうとも義憤でねじ伏せるに至った。実は嘘だとうすうす知らぬではないから、なお傷ついて義憤はさらに高じる。げに現代の神は大衆の義憤なのだ。触らぬ神に祟りなしと、商売人のみならず誰しもが言葉を自由には使えなくなるのである。

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