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 素人の愉しみ

数年前『劒岳・点の記』という映画を酷評したことがある。封切り前に山岳雑誌などでその監督が自画自賛をしているのを読み、なんと厚顔なことだろうと映画を観る前から悪い先入観があったのが評価をさらに酷くした原因だったとは思うが、もしそれがなかったとしてもさほど変わらなかっただろう。
 
映画や興行には莫大な金がかかり、資金の回収のためには監督までもが前宣伝に駆り出されることはわかるにしても、そういった経済的な論理が賞レースを支配しているのは、その年の映画賞のいくつもがマスコミに大いに取り上げられたこの映画に与えられたことでもわかった。何を今さら商売ならそんなことはあたりまえではないかと言われればそのとおりかもしれない。だが賞はあくまで映画そのものの出来の良さで、と青臭くはあっても理想を言うのは身銭を切っている観客に許される権利である。
 
ともあれ、洋画邦画にかかわらず賞をとった映画に昨今ろくなものがないと嘆いていたのが、さらには、賞をとった映画なら観ないほうが効率がいいのではなかろうかと思ったことであった。
 
この成功のおかげで山岳映画をもう一本撮ることになったのだろう、昨年、同じ監督による『春を背負って』という映画が封切られた。
 
雑誌で紹介された、都会生活に疲れた人間が山小屋暮らしをすることで癒されていくといったあらすじを読んで観るまでもない内容だと思ったが、それがDVD化され、自宅で観られるのならとその気になったのは、前作で感じたことを今一度確かめてみようと思ったからだった。
 
というのも、前作を駄作だと断じた理由のひとつは登場人物の山での行動があまりにもリアリティーに欠けることだったが、そう思うのは私に山の知識が人並み以上にはあるせいかもしれない、要するに知識が映画を観る愉しみの邪魔をすることもあるのではないかと思ったのである。
 
DVDで観た今作もあらかじめ想像していたとおりで、山の実景がふんだんに挿入されているだけに、登場人物の所作に現実味がないのが余計に際立ってしまうのは前作同様だった。
 
そのいちいちを挙げ出すときりはないが、例えば重い荷を担いだときの身のこなしひとつをとっても、少々山に登ったことがある観客なら不自然に感じるだろうし、次々に起こる、山や山小屋での事故や事件に登場人物がする対処方法のことごとくが、いったいこの場面でこうするだろうかという疑問の連続なのである。
 
これでは映画を愉しめるはずがない。だが観客が、ほとんど山にも登ったことがなく、陳腐なせりふに満ちた脚本にも考えが及ばない、せいぜい中学生くらいまでの子供ならそんな欠陥に気づかないまま感動的な映画だったと満足するかもしれないとは思う。もっとも両作品ともその程度だということではあるが。
 
たまたま私には山についての知識があるだけで、そのほかの世界のことには素人目しかない。映画にはあらゆる舞台が設定されるが、例をあげれば警察物や病院物など、内情を知らない素人には何の疑いもなく愉しめても、その現場で仕事をしている人には、こんなことはあり得ないと馬鹿馬鹿しくなって観る気が失せることが多々あるだろう。
 
それだけではなく、古今の映画作品の広範な情報、さらにはその技法や舞台裏などを知れば知るほど愉しみが増すということでもなくて、映画の知識そのものにも、謂わば「素人の愉しみ」とでもいうものがどうやらありそうに思えてくる。
 
今はコンピューターやインターネットのおかげで玄人と素人の区別がなくなってきているご時世である。こと映画には限らないが、作品に対するごく一般的な観客の評価をすぐに知ることができるのは、以前はそれを職業としている者による批評を出版物くらいでしか読めなかったことを思えば革命的なことで、映画を観る者すべてが評論家だといっても過言ではない世の中が出来した。
 
映画に関しては、その前の段階にビデオの普及があった。数えきれないほどの作品を家に居ながらにしていつでも何度でも観られ、気になった部分は繰り返し再生し、微に入り細を穿つような観方も可能になったのである。映画を全体の印象というよりは部分部分の知識として把握するようになった。
 
物の価値が相対的に決まる以上、評論をするのには範囲を広くして較べることは必要なことだが、それができるようになって、我々はかつて玄人のした「為にする」映画の観方をするようになった。いったいこれが映画の愉しみなのか、便利を享受しながらもそんな疑いが頭に浮かんでくる。
 
淀川長治が、毎日試写室に出かけて映画を観、評論するような生活がしてみたいという読者の声に、そんなことはしないほうがいいと応えたのを読んだ覚えがある。それに似たことができるようになって、その言葉の意味がわかってきたように思う。 
 
昔感激した映画を時を経てあらためて観直したとき、こんなものだったかと失望することはよくある。これは、悪く言えば自分がすれっからしになったせいでもあろう。知識を積んで頭でっかちの見巧者になったのである。なまじの刺激では満足しなくなったのである。
 
滅多には行けない映画館に出かけたからには一瞬も見逃すまいとスクリーンを食い入るようにして観た頃や、テレビの洋画劇場のCMの時間に急いでトイレに行った頃、ただ観られるだけで嬉しかった頃のことが懐かしく思い出される。映画がいつでも好きなときに観られたらいいなという夢がかなったら、映画そのものから夢が消えてしまった。

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