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        『ランニング登山』(山と溪谷社)下嶋溪 著

昭和の終り頃、まだ登山の初心者だった私は本屋に行けば山岳書の棚を必ず隅から隅まで物色していた。表題の『ランニング登山』はその頃手に取ってページをめくったが買い求めることはなかった本である。そんなことを覚えているのは山を走ることなど珍しかった当時、その特異な書名の印象が強かったからかもしれない。

それから四半世紀、トレイルランニングと呼ばれるスポーツはすっかり一般的になって「トレラン」という略語でも通用する。

各地で競技会が開かれ、参加者のあまりの多さに一般登山者との衝突の危険や山道が破壊されるといった弊害から開催に反対する声までニュースになっているのは一種の流行になっている証左でもあろう。ちなみにこの本に「トレイルランニング」という言葉はまったく出てこないが、これは言葉遣いの違いで内容は変わらない。それにしても「(山で走ることが)市民権を得ていない」と著者が書いているのだから隔世の感がある。

走って山に登るということをテーマにしたおそらく最初の本だと思われるこの本が今の隆盛の端緒のひとつで、しかも一役買ったことは間違いないだろう。ではいったいそこにはどんなことが書かれていたのだろうか。頭の隅にずっと記憶していた本でもあったので古本を探すことにした。今の世の中欲しい本はまず手に入るが、なかなかの値がしたのはブームのせいで需要があるからに違いない。

読んでみてこれは面白いと思った。山で走ることを面白いと思ったわけではなく、文章を面白いと思ったのである。私は明晰な文章を好む。この本のことが記憶に残っていたのは、立ち読みしたときにその筋道の整然とした文章に惹かれるところもあったのだと思う。しかし著者が国立大学工学部の教官だからか本の半分以上はグラフや数式をまじえての山を走る技術的解説で、数式を見ると悪寒がする私はそれでこの本を買わなかったのかもしれない。それらの部分は今回も流し読みしただけである。面白いのはランニング登山のすすめといった内容の、いわば序論の部分だった。

少し引いてみよう。

「登山界も競争の原理が崩れたら話題性がなくなって日蔭の存在に転落し、同時に山岳雑誌はつぶれると思って間違いない。山川草木を愛で、花鳥風月に<もののあわれ>を感じる登山者は確かに多く、雑誌の方もそれらを無視して営業は成り立たないが、頂点に感傷の一切を排除し、全能力、全財産、そして生命を賭けたひと握りの競争者がいてはじめて登山界は成り立っている。」

「高峰の征服競争や人跡未踏の地の探検競争は消費型行為なので、地球の面積が有限である以上、いずれは対象が消費し尽され行為自体が消滅する運命にあり(現在なりかかっている)、必然的に他の一般のスポーツ同様技術、体力そして時間勝負に変わっていかざるを得ない。」

「登山者には運動神経が鈍く、スポーツ音痴の人が多い。自分の性格や能力を数値で明瞭に評価し、他者と比較・競争することをきらい、一定のルールのもとで全力を出し切る能力と精神力に著しく欠け、狭い殻に閉じこもってひたすら自己満足にひたる。」

とまあこんな調子なのだから小気味よいが、そう思うのも少なからず私の中に著者の論調になるほどと思わされる部分があるからだろう。

著者の予言どおり山に新奇を発見する競争はほとんど終結し、行き場を失った競争欲は数字で成果が表される分野に移っている。ロッククライミングの難易度の数値化やトレイルランニングでのタイム争い、登った山の数の争い、高峰への登頂年齢の争い、挙げ出すときりがない。要するに登山はめでたく一般のスポーツの仲間入りを果たしたのである。著者は90年代の終わりにマッターホルンで遭難死したというが、今のトレイルランニングの活況をどう思うかを聞きたかったものだ。

だが「もののあわれ」派である私は、登山が価値を数値で換算するようなスポーツになりきってしまうことにはやはり抵抗がある。というのも登山がスポーツ化することによって衰退するのが何より山の文章だからである。山と山の文章を分かちがたく考えてきた者にとって、それは由々しき事態である。私はその衰退を時代の流れでどうしようもないと半ば認めつつ空しいあがきをあがいている。

登山者自身が書いてきた山の文章の堆積は山岳文学と呼ばれる分野を作ってきた。他のスポーツで競技者自身が文章を書いて例えばマラソン文学とか重量挙げ文学などというジャンルを作っていることなどは皆無で、つまり山岳文学こそが登山を単なるスポーツの枠には留めない拠りどころだった。それが記録を表に数字で書き込んで事足れりになっては、何と明解でしかし何と味気ないことだろう。

意味のゆるがない数値とは異なり、いかに筋道立てて明確に書いたとしても何がしかの曖昧さが残るのが文章というものの本質で限界である。言葉の持つ意味が必ずしもひとつではなく、組み合わせが無数にある以上、これは仕方がない。しかし文学の名に値する作品から得られる情感や滋味または余韻といったものも同時に文章の持つそんな曖昧さに負うところがある。そして言葉で物を考える人間が曖昧な存在でないはずがあろうか。それを数値のみで推し測られてはたまったものではない。

私は他人の趣味には寛容だから山で走ろうが何をしようが各々の楽しみに水を差すつもりはない。それだけ山は懐が深いと考えればいいことである。ただ山を、走るためや競争のための場所としてしか見ていない人種とはそりが合わないのは確実だから、以後お付き合いは御免こうむる。

『山の本』には書けなかった余談

この本の表紙写真や中身の写真のモデルは、山旅サイトでもおなじみのネコオヤジ伊東庵氏である。山で走るくらいでなければ、伊東庵氏のような激しい登山はできないだろうことは確かだと思う。

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