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左から斎藤健治、片岡博、高田眞哉の各氏
(2002.4.12 私が片岡さんに初めてお会いした日、斎藤さんの別宅にて)

               蔵書こぼれ話

山宿を開業したとき、私は食堂に本棚を置いて持っていた山岳書を並べた。登山者向けにと始めた宿だったので、それにふさわしい雰囲気にしようと思ったのである。

それから十数年、本は増殖し床は歩くと不気味にきしむ。増えた本のほとんどは古本で、その多くは宿の客として知り合った方々からいただいたものである。

この世はどうやら運命に支配されているらしいと私は漠然と思っているが、人や本との出逢いもその例外ではなく、運命的としか思えない邂逅がこれまでに何度もあった。最近もそんな出来事があったので書き留めておきたい。



2011年に97歳で亡くなった片岡博さんには『山菜記・正続』『山菜譜』(いずれも実業之日本社)など、山の幸を題材にした数冊の随筆集があって、私の本棚に並ぶそれらはすべてご本人からいただいたものだ。

片岡さんと初めて会ったのは10年ほど前の4月、これもそのときに初めて会った、片岡さんの友人斉藤健治さんの別宅が私の近所にあって、そこでの観桜会に仲間内が集まったときのことである。その何人かが私の宿の客だったことから私にも声がかかったのだった。

その何人かというのは、いずれも『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)の著者山村正光さんを通じて宿の客となった方々である。山村さんとは私が御坂峠の茶店で働いているときに知り合って、前記の本を読んだことが登山から離れていた私を再び山へ向かわせることになった。恩人のひとりである。

山村さんが「山に登っていたおかげで、畏れ多くて口もきけないような人と親しくなれた」と言ったのを覚えているが、どうもその人とは片岡さんのことを指していたように思う。山村さんは国鉄からJRへと中央線の車掌を定年まで勤めた人で、片岡さんはその大組織の要職にあった人だったから、職場だけではじかに接することなどありえなかったと言いたかったのだろう。

片岡さんや斉藤さんへの初対面のあいさつもそこそこに、今では何でそうなったのか覚えてはいないが、私は片岡さんとふたりで付近の畔道を散歩した。

春はまだ浅いがあちこちに野草が新芽をもたげている。杖でそれを指しながら、これは食べられるあれも食べられると、片岡さんにかかっては野草は皆食用になるらしい。なるほど彼は山菜の権威だったのかと私が知ったのはその後のことであった。

それ以来、片岡さんには私の宿に何度も泊ってもらった。そんな折々の会話で、大分県佐伯市に先祖があると知ったのは思いもかけないことだった。というのも私の母方の先祖も佐伯にあったからで、ならば昔の狭い世間のこと、父祖同士は知り合いだったかもしれないではないか(これは最近わかったことだが、片岡さんの本家は土屋といって佐伯藩で家老職にあったという。私の母方の山中家も同じく代々家老をつとめたというから、お互知らないはずはなかっただろう)。

最後に会ったのは、2005年暮れに亡くなった山村さんを偲ぶ会がその翌年6月に私の宿で催されたときだったと思う。山村さんは片岡さんのひと回り年下だった。

足が弱って出かけるのが不自由になったと聞いたのはいつ頃だったか、一度こちらから伺ってお顔を拝見したいものだと思っているうちに訃報に接することになった。

亡くなって1年半たった今年6月、長男の篤さんから突然メールをもらった。父の本は家にあっても死蔵なのでもらっていただけないかというのである。それまで面識はなかった息子さんからなぜ私にそんな連絡が来たのかというと、片岡さんの姪御さんがこれも偶然私の宿に何度も泊っていて、従兄弟に助言をしたというわけだった。

是非もない。実は生前、君に本をあげるから家まで取りにおいでと片岡さんに言われたことがあった。ああそうですかといただきに伺うのも厚顔に感じたのでそれきりになっていたのだが、結局全部やってくることになろうとは。

私の蔵書との重複も多いだろうし、処分についてはお任せ願うと断ったうえでダンボール7箱分の本がやってきたのは7月半ばのことであった。

ここまででも因縁話ではあるが、さらに話は続く。

ひと通り本を検分し終わったころ、日野春アルプ美術館の鈴木伸介さんから、山村さんが書いた深田久弥氏最期の日の逸話「茅ヶ岳回想」(深田氏が茅ヶ岳で病死したとき山村さんは同行者のひとりだった)が載った『山と溪谷』82年10月号が私のところにないかと問い合わせがあった。

その頃の数年分は専用バインダーに納められたものを一括して譲ってもらった記憶があったので探してみると果たしてあった。

こんなことでもなければ古い雑誌をめくることなどまずない。懐かしい思いで山村さんの文章を読み、他の記事にもざっと目を通していたとき、奇遇に驚かされてページを繰る手が止まった。

そこは「一枚の写真から」という、著名人が自分の山の写真を一枚選んで簡単な文を添えるといった連載のページで、その号に登場していたのがなんと片岡さんだったのである。(参照)

偶然はそれだけではなかった。掲載された「桜島噴火以前」という題の写真は、片岡さんが旧制七高在学当時の1936年、鹿児島ではめったにない大雪が降った日に桜島に登ったときのものだが、その写真こそ、私のところに届いた蔵書の中に紛れ込んでいて、あれ、これはどこの山だろうと手に取ったばかりの一枚だったのだ。

さらには、その『山と溪谷』を私に譲ってくれた人とは、片岡さんと初めて会った日の観桜会のホスト、片岡さんと同い年で、1年早く逝った斉藤健治さんだったのである。 

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