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       『バックパッキング入門』(芦沢一洋著・山と溪谷社)

私が山歩きを始めたのは一九七〇年代の半ば、高校生のときだった。靴やザックこそ安物を揃えはしたが服装に関しては着古した普段着を適当に着た。その頃はハイキング程度の山ではそれが普通だったと思う。自分の記憶ばかりでは不安なので当時の山岳雑誌の広告を何冊か調べてみたが、靴やザックやテントは多くあっても、服についてはせいぜい冬用の特殊なものがあるくらいで、お洒落に属するような服装などはほとんど見かけなかった。

それが今や山岳雑誌はファッション雑誌と見まごうばかり、山岳用品店はブティックさながら、ブランド物(山の服にそんなものはなかった)と呼ばれる服で身を固めた登山者がどの山にもあふれているのだから隔世の感とはこのことだが、そういった山の服装の多種多様化とデザイン的な洗練に大きな役割を果たしたのが表題の本だったと私は考えている。

七〇年代初頭のCMコピーに「モーレツからビューティフルへ」というのがあった。山の世界でも遅ればせながらやってきたそんな流れに棹さしたのがこの本だった。私は三版を七六年六月に買っているが、初版が同年三月なのだから、またたく間に版を重ねたことがわかる。その後数年間はさらに版を重ねたはずである。

三六〇ページもある本の冒頭三〇ページほどがバックパッキングの概説、残りのほとんどすべてがおびただしい数の装備や道具の微に入り細を穿っての解説で、昨今では別に珍しくもない「商品」をひたすら紹介するカタログ本やカタログ雑誌のおそらく嚆矢でもあった。

私はこの本で初めて名前を知った品も多く、バンダナもそのひとつだった。大学に入ったとき、まだ髪の毛が邪魔なほど豊富にあった私はこのバンダナというやつを鉢巻代わりにしようと考え、大学のあった田舎町のスポーツ店を三軒回ってさがしたが、売っていないどころかその名前すら通じなかったのを思い出す。「ヘビーデューティ」「アイテム」「ギア」「マテリアル」「サバイバル」等々、この本によって一般に流通したカタカナ英語も多いはずだ。

背負子とザックが一体になったようなバックパックは文字通りバックパッキングの装備の代表で一時期これを背負った登山者をよく見かけた。もっともこれは平地を長い距離歩くには良くても急坂の多い日本の地形には不向きだったとみえ、すぐに姿を消してしまった。

七〇年代も末頃になると、この本に出ていた、たとえばマウンテンパーカーやダウンベスト、そしていかにも登山用といった服装が街着として当たり前になった。それらを着てデイパックを背に街を歩くのはちょっとした流行だった。街着としても売れれば需要が増え、おのずとメーカー間の競争は活発になる。すなわち商品はより良くなる。山の服装から無骨さは薄れ、色彩やデザインが洗練され、そして現在のように山でも街でも違和感のない服装の百花繚乱となったのである。今、登山用品店で服を買う多くの人がおそらく街着として使っているのではないだろうか。

今回『バックパッキング入門』を取り上げたのは、以上に挙げた、この本が果たした一種の功績について私が漠然と考えていたことをはっきりと文章にしたかったからだが、稿を起こすにあたって大学生くらいまではよく眺めていたこの本を久しぶりに読み直して実は驚いた。

というのも今なら数行読んで放り出すような文章だったのである。それを高校生や大学生だった私はありがたく読み、内容に疑問も持たなかったことになる。今より辛抱強かったのか、文章がわからないのは自分が悪いからだという謙虚さがあったのか、きっとその両方だったのだろう。

この本の大半を占める商品解説は、アメリカ製品が多い性格上とはいいながら、訳する努力もしないままやたらと羅列されたカタカナ英語が著しく興をそぐが、それまでになかった異常なまでの詳細さが新鮮だったことに免じてまあ良しとしよう。問題なのは冒頭のバックパッキングの成り立ちと背景についての文章であった。

要するに世界中でもっとも物質文明が爛熟したアメリカ社会では、その反動で自然への回帰を目指す人間が当然のごとく現れ、彼らがバックパッキングと呼ばれる、自らの肉体の力でする旅のかたちを生み出したというだけのことなのだが、それが「健康な肉体を使って自然の中に融合し、自然の、あるいは生命の仕組みと生態を知り、そこから自然の中に生存するに値する生物の一員としての人間をとらえなおそうとする考えが、バックパッキングに結びついてきた」とか「画一的な適合の中で敷かれたレールの上をただ走りつづけるだけのこの世界を離れ、人間の真の生活原理の発見に向かう旅をめざした」といったはなはだ論旨不明瞭な文章で延々と説明されるのだからたまったものではない。

そもそも物質文明に背を向けて自然に分け入ろうというのに、その手段として使う装備のことごとくは物質文明の恩恵である工業製品で、それらの解説が本のほとんどを占めるのだからその自家撞着ぶりは噴飯物でもある。

結局、この本がベストセラーになって前述のような影響を以降に及ぼしたのは、著者の書く曖昧模糊とした文章によって、むしろそれだからこそ何やらよくわからないが崇高な精神がバックパッキングの背景にはあるらしいと私だけでなく多くの人が思い込まされたからではなかったかと今にして思う。つまり、たかだか遊ぶにしてもお洒落をするにしても人は大義名分に背中を押されたいものなのであろう。大義名分は時代とともに変化するものだが、それがたまたま世相に合ったときに流行を生むのだと思われる。

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