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 『空白の五マイル』角幡唯介著・集英社

学生時代に議論した話題のひとつにこんなものがあった。

ゴッホは生前まるで顧みられることがなかったにもかかわらず死後脚光を浴びて今や知らない人などいない絵画芸術を代表する画家のひとりだが、ゴッホや絵画に限らず同様の例はいくらでもある。ならば彼らの作品はそれらが人口に膾炙する以前は芸術作品ではなかったのだろうか。

要するにこれは芸術に絶対的な価値を認めるか否かということだが、私は、そんな価値などない、人に認められる以前には芸術作品とはいえないと主張した。人の世に絶対はなく、あらゆる物の価値は相対的にしか定まらない。ゆえに何人もの他人が認めてはじめて芸術作品たりうるのだという意見は当時も今も変わらない。

もっとも、ではより多くが認めるほど作品の価値は高まるのかとなると、どうもそう単純ではないところが厄介で、少数派が認めるものがむしろ至高であったりする。多数派が卑俗に堕すことがよくあるのは、有名な誰かが良いと言ったものを良いと復唱する人が世間には多くいるからで、その唱和がいかに高らかに響こうとも、むやみにエコーのかかった水増しされた合唱にすぎないからである。

芸術の商品としての価値ばかりが取沙汰されるのが現代で、それもひとつの尺度には違いない。しかし今流行している結果として価値が高まっているものは、生鮮食品の命が新鮮なうちだけなように、その旬を過ぎれば打ち棄てられてしまう危惧がつきまとう。真に価値のあるものは時代を越えて生き残り、やがて古典となるとすれば現在での価値はあまりあてにはならない。

我々が築いてきた情報化社会は酷薄で、何をしようがもう誰かがやったことの繰り返しや焼き直しになってしまうことを嫌でも知らされることになる。「アート」という軽薄な片仮名語がマスコミによって多用され、街中にそう呼ばれる曲が流れ作品があふれているが、いかに技巧に長け、いかに華やかで美しくとも、そこにあるのはすでにどこかで見聞きしたもので、その作者の遺伝子配列が他と違う以外の独自や新奇を見つけるのはいよいよ難しい。よって、いかに芸術が模倣に始まるとはいえ、それから脱しようとする現代の真摯な芸術家たちは過去を含めた気が遠くなるほどの数の比較対象に取り囲まれてあがくしかない。いずれ古典と呼ばれるようになるために通らなければならない門は年々狭くなるばかりで、ひとたびでも世に名が出たなら、もって瞑すべしとしなければなるまい。芸術は長く人生は短しとは遠く古代ギリシャの話で、現代の芸術は人生の短さで命運が尽きる。けだし芸術は隘路にあると言うべきであろう。



『空白の五マイル』は、事実に頼るあまり文章がお粗末になりがちなノンフィクションの中にあって、文章に芸があるうえに明晰さが際立っており、昨今の若い書き手に対する私の年寄りじみた先入観を見事に打ち砕いてくれた傑作である。

海外の山や探検に興味の薄い私は、流域に探検の空白地帯が五マイルに渡って残されていたという世界最大のツアンポー峡谷も初耳だったのだが、そんな私にも一世紀以上昔に始まったこの峡谷の探検史をひもといてその壮大さや困難さを理解させ、最近の日本人のカヌーによる遭難も深く追及して織り込みながら、結局それらが自分の冒険行を盛り上げる伏線となっていく構成も大したものだと思わされた。

この本のプロローグで著者は、誰にも見向きもされない、重箱の隅をつつくような場所で探検や冒険をしても意味がないと書いていて、私が前述した芸術作品と同じく、それらも世間に認められてこそだと考えていることがわかる。石川直樹氏は「冒険者はアーティストでもある」と書いていたが、なるほど時代に自分を刻みつけたいという狂おしいような魂も同根であろう。しかし探検や冒険の二番煎じが価値を減じるのは芸術の比ではなく、地理的な空白の喪失とあいまって、現代の冒険者に残された、いずれ古典と呼ばれるほどの絵を描くキャンバスはもはや皆無か、あっても極小である。

本来探検というものはいわば文明国の未開地への侵入であった。いまだにその傾向はあるにしろ、地理的な空白の喪失とは文明が地球上に行き渡ったということである。ツアンポー川沿いの村でもわずか数年の間に携帯電話が普及していたと著者は書く。

初期の探検はその時代の科学の粋を尽くした。便利な手段があったら迷わず使い、有能な要員を配した。しかし今は違う。著者は通信手段を持たず単独でという負荷をわざわざ自分に与えた。辺境の量が減っているのなら質で補おうという涙ぐましい努力だが、これが探検と冒険の分岐点ともいえよう。いうまでもなく著者の行動は冒険である。

私小説作家は書くために生活の破綻をわざと招くことがある。昨今珍しい、著者のような「書く」ことによって世に出た冒険家はそれと似たところがあって、次からは書くために困難や奇禍を求めてさまようことになる。つまりは目的だったはずの冒険が手段に変化をとげる。その結果は私小説家なら自堕落になるだけだが、冒険家はまかり間違えば命を落とす。

戦争や災害が実況放送され、自分自身をインターネット中継しながら「単独」でエベレストを登頂しようとする者が現れる今日、冒険もまた茶の間の見世物である。危険な見世物なら観客は悲劇を半ば期待していることを冒険家は忘れるべきではない。

冒険の事情に疎い私が『空白の・・』に感銘を受けたのはその冒険の成果ではなく文章であった。いかな歴史的な冒険でも年表に書き込むだけなら一行で済む。しかしそれで済むならこの世に文学はいらない。自身の冒険という動機がなければ書けないような角幡氏の文才ではないと私は思い、その行き場を案じてこの一文を書いた。

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