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 山を駆けた犬の話

高校時代に読んだ山の本の中で印象の強かった一冊に芳野満彦著『山靴の音』があった。この本の白眉は八ヶ岳での遭難手記「雪と岩の中で」だが、もうひとつ「ゴンベーと雪崩」という忘れがたい文章がある。

これは芳野氏が上高地徳沢園で冬季小屋番をしていたとき、ゴンベーという犬と冬の穂高の岩壁を登った話である。その途次ゴンベーは墜落や雪崩などのアクシデントに遭いながらも見事に生還する。

この文章を読んで山と犬が私の中で強く結びついたように思う。犬と山を歩けたらどんなにか楽しいだろう。しかしそれが実現したのは私が40歳になろうとする頃であった。

90年代半ば、私たち夫婦は御坂峠の茶店に住み込みで働いていた。ある日、峠道で首輪のない真っ黒な犬を見つけた。棄て犬に違いない。まったくの子犬ではなかったがまだ成犬でもなかった。山中の一軒家での暮らしに犬がいれば楽しかろうと思っていた私たちはこの犬を飼うことにした。

犬には棄てられたことがわからない。初めのうちは前の飼い主が戻ってくると思ってか車が停まるたび降りてくる人をじっと見ていた。いつしかそれもなくなったが、ついに一生ごくわずかながらよそよそしさが残ったように感じられたのは、犬の健気さか不憫さか、いや、生まれながらの飼い主ではなかった私の引け目からくる錯覚だったか。

クリオと名づけられたこの雄犬は、それから2年余り私たちが峠にいる間は放し飼いで御坂の山中を勝手に走り回っていた。したがってその間山歩きに連れて行ったことはほとんどなかった。

クリオと頻繁に山に行くようになったのは私たちが峠を降りてからで、日がな一日玄関先につながれる破目になったクリオの不本意を思ったからだった。

犬を山で放すことを嫌う人も多いことを知らぬではないから、もともと私の好みでもあった人けのない藪山へ向かうことがますます多くなった。

クリオとの山歩きは、しかし私が思い描いていた、私の後ろを犬がおとなしく着いてくるといったものではなかった。リードをはずすやいなやクリオはまっしぐらに山の中へと消え去り、たまに様子を見に来てはまたどこかに消えるといった具合で、一緒に歩くというにはほど遠かった。それにしても、移動し続けている私を追尾する能力には毎度目を見張らされたものだ。

私たちが八ヶ岳山麓に宿を開業してからは、クリオは多くの人とも山行を共にすることになった。いったい彼は何人といくつの山に登ったことだろう。しかしそれも去年の6月で終わりになった。体力が衰えたのに本能で鹿などを夢中で追いかけ、息も絶え絶えに疲れることが多くなったからである。普段の朝夕の散歩にも時折よろけてしまうクリオは14歳になっていた。

山の用意を始めると連れて行けと吠えたクリオだったが、しばらくはせがんだものの、それもやがてはなくなった。

一度近くの山で遊ばせてやろうと思っていたのを果たさぬうちに片方の後足が利かなくなった。その後背中にできた腫瘍が悪性とわかり私たちは暗黙のうちに覚悟した。

この9月16日から1ヶ月間、中村好至恵さんの個展が日野春アルプ美術館で開催された。中村さんはその間私の宿に泊まり、そのお客さんなどで慌しい日が続いた。

10月に入ってクリオの具合はいよいよ悪い。身体をなでるといたるところで転移した腫瘍に触れた。

15日、中村さんの個展が終わる前日、宿はある会合で満室となった。クリオの命旦夕に迫ると私は感じていたが、こんな忙しい日に死なれでもしたらという不吉な心配が頭から離れなかった。

幸いそれは杞憂に終わり客も寝静まった。だがクリオの容態は依然悪かった。痛いのだろう、苦しげな声をあげる。妻が夜中まで身体をさすってやるといったん落ち着いたがまたうめき出す。代わって私が朝の支度をしながら身体をさすってやった。朝からは娘が私に代わった。

客を送り出したあと個展の最終日に私も顔を出して正午前に帰った。勝手口で寝ていたクリオが目をあけて私を見たのでほっとし、頭を少しなでて家に入った。しばらくして吠え声がする。トイレの催促だろうと思って妻に任せ、私は奥の部屋から出なかった。

その直後、妻と娘の悲鳴のような呼び声でクリオのもとに駆けつけた私は、両手で顔を覆ってしゃがみこんでいる妻の姿に彼の命が召されたことを知った。

クリオに呼ばれた妻が彼を抱き上げて庭の草の上に寝かせ、居場所の掃除をして振り向くともう息絶えていたという。おそらく最後の声は明るい外の草の上で死にたいということだったのだろう。

夜半から続いた大雨は朝には上がって秋としては異様に暖かい晴天となっていた。クリオの横たわる草もすっかり乾いて最期のしとねはいかにも柔らかい。

再び波打つことのない毛並みをなでてやりながら涙が止まらなかった。しかし滂沱と涙を流しつつも物事の終わった解放感を私は感じずにはいられなかった。うそのように明るい空の下、終わりを呪いそして祝った。

さぞ痛かったろうにクリオは死ぬのを待っていてくれたのだなあと思った。物言わぬが彼には何もかもわかっていたのだ。8年前から宿泊のたびにクリオを散歩に連れ出してくれた中村さんの個展の最終日、この秋一番多かった客を送り出したあとの、家族全員がいる日曜日にクリオは逝った。

個展を終えて宿に戻った中村さんはそこでクリオの死を知り、驚きと悲しみの中、即座に死に顔を描きあげてくださった。ささやかに個展の慰労会をするつもりだったこの夜はクリオの通夜となった。

足かけ16年の生涯ただの一度たりとも牙をむいた顔を見せなかったクリオは、その優しい顔のまま花畑で安らかに眠る姿の絵となって、今は宿の食堂に飾られている。

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