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『使えるハンディGPS ナビゲートブック』
              高橋玉樹・著


もう5年くらい前になるだろうか、山で携帯GPSを使うのがさほど珍しいことでもなくなっていたころである。私より十歳は年配の、藪山を好んで登っているという人との会話の中で私はこう尋ねた。

「山でGPSをお使いになりますか」

私はこのとき「いや、使っていません。そんなものは邪道です」といった回答を予想していたのだが、あにはからんや彼は「もちろんです。径のはっきりしない山に登るのにあれは欠かせませんね」とのたまった。

予想外の答えに二の句が継げなかったので「なるほど」と納得したふりをして話を打ち切ったものだったが、要するに私はGPSというものに反感を抱いていて、古くから藪山を歩いている人なら当然自分と似たような考えを持っているだろうと勝手に想像していたわけである。

二の句がつげなかったのは、反論するにも自分のGPSに対する反感が文字通り感情的で非論理的だったからでもあった。

90年代のはじめ、高度計のついた腕時計が廉価で発売された。広告で知るや何の迷いもなく私は買いに走った。それから山へ行くときにその時計は欠かせない。高度がわかると自分の位置が飛躍的に確かになる。

高度計だろうがGPSだろうが機械の力を借りて人間の能力を補っていることに違いはない。ならばこちらが良くてあちらが悪いというのでは筋が通らない。より正確を期すならGPSを選ぶのが正しい。人工衛星に見張られているようで気持ちが悪い、地図と磁石があればGPSなど必要ないとうそぶいたとしても、だいたいその地図がすでにGPS測量でつくられているというのでは何をか言わんやである。

結局私の反感は、年をとって頭が固くなり新しいものに対する興味も薄れれば進歩に追従する能力もなくなったからではないのか。ならば反論の余地はない。



今やカーナビゲーションは常識となった。携帯GPSもかなり普及しているだろう。しかし私はどちらの軍門にもまだ降らないままだ。だが、ろくな知識もなく反感ばかり抱いていたとしても大人気ない。そこで通販で購入してみたのが表題の本であった。

届いた本を見て、今ではこんな本が山岳書の棚に並んでいるのだろうかと思った。ページをぱらぱらとめくっても、中身はパソコンコーナーに並んでいる本そのもので、ひたすら機能の図解である。 

それもそのはず、この本は、ある機種の解説書みたいなもので、それを持たない人にはほとんど用はなかったのである。GPSの文字だけ見てよく調べもせずに買った私が悪いのだが、結局、興味を持って読んだのはあとがきだけだった。しかしそこにはなおさらGPSを使いたくなくなるようなことが書いてあったのである。

〈実際にフィールドに出かける機会の多いかたほど、いきなり「答え」を出してくれるハンドヘルドGPSのありがたみを感じることでしょう。そして、この便利な道具に対しての依存度がどんどん高くなってくることでしょう。しかし、何より大切なのは、「道具としての限界性」を常に考慮しておくことです。〉

なるほどいかにも正論だが「ありがたみ」を感じる人がいるのは今のうちで、最初からこの機械を持つのがあたりまえになればいなくなる。初めて買ったのがゴアテックスの雨具ならそのありがたみはわからない。だから依存度が高くなるというよりは、そもそも依存していることがわからない。つまり「道具の限界性」になど考慮は及ばない。となると「何より大切」なのは「常に最新の機種に買い換えて使い続けること」以外にない。パソコンやその周辺機器があっという間に古くなって天を仰いだ経験などもう何度もした。おそらくGPSを買えば同じ轍を踏むだろう。まっぴらである。

文明は常に省力化に向かう。文明人の端くれである私は楽をするための道具が好きで、たとえば身の回りの電化製品などには人一倍興味があった。理数系の能力が皆無のわりには機械が好きだ。だがあらゆる機械をコンピューターがつかさどるようになると、ほとんど呆然と眺めているしかなくなった。パソコンが家庭に入ってからは、これに振り回されて時間を取られるといった本末転倒が日常茶飯事である。

ついにコンピューターは我々の頭を蚕食しだした。コンピューターに右に行けと言われて右に行くのである。黒だと言われれば黒だと思うのである。これを頭脳の劣化と言わずして何と言おう。技術者は何を馬鹿なと嗤うかもしれない。しかし彼らとて同じ穴の狢だ。

文明による省力化は山に登らずにはいられない人種を生み出した。それは肉体労働を失った筋肉が運動を欲したからでもあっただろう。しかし彼らが本能的に恐れていたのは、本来人間が持っているはずの感覚が失われていく---頭脳の劣化とはこれを言う---ことではなかったか。今ではもうそんな感覚も風前の灯で、遠からず根絶するだろう。そう思いながら私はむなしいあがきをあがく。

現代は命を永らえることとそれに伴う安全確保を金科玉条のごとく扱う世の中である。しかし私はテクノロジーがそれを錦の御旗にして増長することを小癪に思っている。テクノロジーが追いつかなくてあたら尊い命を散らしたと言い張るなら未来永劫人の死は犬死である。

今もし山で遭難した人が携帯電話を持っていなければ非難されるに違いない。十数年前には考えられなかったことだ。GPSがもっと一般的になれば同様になるだろう。

これらが安心を本当にもたらすのだろうか。この世に絶対の安全もなければ不死もない。私は程を知らなければ人はますます不安になるばかりだと信じて、もしやむをえずGPSを使うことになったとしても、和解などするものかと口惜しまぎれにつぶやくことだろう。

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