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 漫画と『岳』

大学生ともあろうものが漫画本を読みふけるとは、と当時の大人たちを嘆かせていたのは私が小学生を終える頃だったろうか。毎日のように大学紛争のニュースを聞かされた時代である。

妙なことを憶えているものだが、子供心にも子供の読み物だと思っていた漫画を、子供の目からは大人としか見えない大学生も読んでいるのだということがよほど印象に残ったのだろう。当時はすでに劇画と呼ばれる大人向けの漫画も出回っていたのかもしれないが、それらに歴然とした差はない。

その大学生たちが孫をもつような年齢になった今、全世代が漫画を読み、それに文句を言う筋合いの人もいなくなった。それどころか、我が国を代表する映画監督のひとりにアニメーションの監督が挙げられ、国が誇る文化として、その輸出のために国家予算までつぎ込まれそうな勢いである。

これは、生まれたときから当たり前にあった漫画に影響を受けて育った世代が、表現の手段としてそれを選び、才能ある者がさらにその手法を発展させた成果だが、ひとり漫画どころか、この世のすべての文明文化に過去に負わない発展はなく、その結果、百花繚乱と呼べばいいのか百鬼夜行とでも呼ぶべきなのかいささかとまどうような混沌が訪れるのも同じで、今や漫画の世界も、全体を把握することが困難な状態になっていることは、ほとんど漫画を読まない私にも想像がつく。

だが、いかに混沌となろうとも、漫画や絵本が読者の主流をせいぜい小学生くらいまでの子供とすることは変わらないはずである。それは、単純でわかりやすい絵を用いて表現する手法が、抽象的思考力を持たない子供に物を語ったり知らしめたりするのに好都合だからである。

そう考えると、現代の大人が、ひたすら漫画ばかりを読みふけったり、子供が楽しめればいいだけの絵本に必要以上の意味を見いだしたりするのを、大人の鑑賞にたえる作品が多く生産されるようになったからだというのは楽観的か好意的に過ぎ、実は大人が子供のレベルから脱せられないだけとみるのがより適切な判断と思える。

だからといって私は漫画作家や絵本作家を例えば小説家をはじめとする文章のみで表現しようとする作家の下に置くものではない。それどころか才能ある漫画作家が絵で物語を紡いでみせる手腕に凡百の小説家は及ばないと思っている。しかしながら、漫画作家にいくら才能があったとしても、漫画の出自、すなわち読者に物語を具体的かつ安易に享受してもらおうとする方法は変えようがない。読者にはしかつめらしい顔をして漫画をじっくり味わおうという気など毛頭なく、次から次に読み捨てて新しいものを求める。そしてこの回転の速さこそ漫画の存在価値ともいえ、出版社の妙味もそこにあるからこそ、これだけ漫画があふれかえっているのである。よって漫画作家は彼に才能があればあるほど徒労を感じることが多々あるだろう。要するに書き手と読み手の能力の差は小説の場合以上に大きいのである。



数年前、『岳』(石塚真一作・小学館)という、山が舞台となった漫画の何巻かを知人から譲り受けて読んだ。その後も巻を重ね、大きな賞をもらったとも聞いた。

主人公は山岳レスキューで、風采はあがらないが、山では俄然スーパーマンのごとき大活躍をし、遭難者を救助する。遭難者はもとより登場人物はことごとく屈託や葛藤を抱えていて、それが主人公や山によって浄化される仕組である。

何のことはない、この構図は昔からあるステレオタイプである。しかし大人が読むにたえる漫画なら、すべからくナンセンスに徹すべきと考えている私のような人間にとって、こういった、ともすれば教訓を押し付けられそうな構図は苦手の部類に入る。

それにしても、『岳』の構図は見慣れたものなのに、それがベストセラーとなって賞までもらうほど支持されたのには理由がありそうだ。

山が舞台であることに日本中の登山者が喜んで買ったとしても、それだけでベストセラーにはならない。山とは縁もゆかりもない人たちが買ったからそうなったのである。つまり喝采する下地が世間一般にあったことになる。その下地とは何か。それは巷間耳にする唄のフレーズを拾い出すとわかる。

「優しさと強さ」「等身大の自分」「駆け抜けた日々」「遠回りしてもいい」「自分をさがす」「君がいるからがんばれる」「夢は逃げない」「飾らない心」「絆を信じて」「思いがつながる」「信じる気持ち」「心の地図」「不器用な生き様」「思いをわかち合う」

きりがない。まず十中八九、こういった傾向のフレーズを並べて歌詞がつくられている。歌詞ばかりではない。映画やテレビの中にもこの手の台詞が蔓延している。

『岳』の主人公の特徴は、遭難者にいかに過失や苦悩があったとしても、それを全面的に許し受け入れることだが、どうも読者はそのあたりに感応しているらしいことがこれらのフレーズの氾濫から伺えるのである。『岳』の作者がそのツボを押さえる技を確信的に使ったとすれば機敏な才覚だといえるだろう。

ゲームやネットの仮想世界に耽溺した結果、人間同士の連帯感が希薄になったからだと、どこかの先生が解説しそうな按配だが、言えば笑止である。甘えの流行に過ぎない。流行は軽薄なものと相場は決まっているが、軽薄ならまだましで、この流行は幼稚と言うほかない。大人の幼稚化は着々と、より高年に及んでいる。これは平均寿命の伸長とも無関係ではあるまい。

少し昔の大人たちが、大学生が漫画を耽読するのを嘆いたのは嘆くに値したことだったのである。現在でもそれは価値ある嘆きだと思われるが、嘆いたとて詮ないのは、残念ながら常に歴史が証明するところである。

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