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2009.1 ロッジ山旅にて 渡辺隆次氏

 渡辺隆次の画文集

小学校に入るか入らないかの頃、兄弟や近所の幼なじみと、当時人気の漫画を模写していて、自分の絵が他と比べて明らかに下手くそなのを子供心にも感じた。大げさにいえば、画才がないことを早くも悟ったのである。だから練習しなければとは露ほども思わなかった。あきらめる才能だけは人一倍あったとみえる。

そんな私にとって、小学校の授業で絵を描かされることは苦痛でしかなかった。犬を描いたつもりなのに犬に見えない理不尽。おのずと図画の成績はまるで話にならない。親は通知表を見て驚き、あろうことか私をお絵かき教室に通わせた。当然嫌で嫌でしかたがない。長く通った覚えがないから、早々に親もあきらめたのだろう。さすがは私の親である。

中学までは否応なく図画の授業はつきまとい、わが通知表の汚点のひとつとなり続けたが、高校では美術が選択科目で、履修せずにすむことになって心底ほっとした。それ以後今に至るまで、絵を描いたことなど一度としてない。

だから私には絵を云々するような目はない。たまにお付き合いで展覧会に行っても、作品名の隅に小さく売値が書いてあったりすると、それにばかり目がいく。我ながら情けない。



およそ一五年前、書店でたまたま目にした渡辺隆次氏の画文集『山のごちそう』(ちくま文庫)を手にとったのは、そのころ私が山菜採りに熱くなっていたからだった。

春になるとそわそわと落ち着かなくなる。気温の変化に敏感になる。あそこはそろそろ採り頃のはずだがと気があせる。何より、誰かに先を越されるのではと心配でしかたがない。

藪山を歩いているうちに見つけたタラやコシアブラの群生地を何箇所も知っていた。こんなところまで来る者はあるまいという場所である。ところが山菜採り恐るべし、径とてない山奥にまで彼らは入り込んでくるのだ。期待を胸に訪れてみると、すでに採り尽くされていたことも一度や二度ではなかった。自分のことは棚にあげて、人の欲深さを呪ったりもした。

そんな有様だったから、「山のごちそう」という書名にまず目が吸い寄せられたのである。だが、山菜の図鑑ならもう何冊も持っている。よし買おうと決めたのは、本を数ページ立ち読みして、その文章に感応したからだった。画文集の一方をなす、細密画ともいうべき美しい山菜の絵がそこに散りばめられていたからというわけではなかった。これは画家である渡辺氏には失礼なはなしだが、そうではないのだと言いたいがために、前置きで我が恥をさらしたのである。

私は絵のことはよくわからないが、文章については好みがはっきりしている。少し読めば、それが自分の好みかそうでないかくらいはわかる。

前の文を後の文がきっちりと受けて、論理に破綻がなく、しかも語尾が歯切れ良いこと。センテンスの長短に快いリズムがあること。比喩が適切で機知に富んでいること。形容が大仰でなく控えめで、それがかえって余韻を残していること。つまり、文章表現は同時に内容そのものだから、文章が良ければ内容はおのずと備わっていると思っている。

おっ、これは、と思った。家に帰って、あっという間に読了してすっかり気に入り、すぐに同じ文庫に納められている前作『きのこの絵本』も買った。そしてさらに感嘆させられたのである。

世に画文集は多い。画才の上に文才があるとは、天は二物を与えるのかと嫉妬に近い羨望を持つこともある。だが一方、絵と文がお互いを高めあってひとつの作品となっているといえば聞こえはいいが、文が絵の解説になっていたり、絵が文の至らなさを補っていたりすることも間々ある。各々を引き離せば、絵も文も宙に浮く。

人は言葉で物を思うから、つい絵や音楽を言葉で説明しようとする。だが本来それらは言葉を拒否すべき表現ではなかったか。流行歌がこの世を席捲する時代、歌詞も音楽の一部分と思われがちだが、人の声にメロディを奏でさせるのに言葉が都合がいいだけのことである。

渡辺氏の本では、絵と文が並んでいながら、それぞれがまったく独立している。たとえば「ウスムラサキ」というキノコについての文章がある。

<紫色のか細いキノコの柄を摘み、あらいヒダの傘裏を天にかざす。薄い表皮を透かして、美しい紫の輝きが目を射る。濃き色淡き色、「花の大聖堂」に跪く自分とその世界を包みこむかのようだ>

横のページにはこのキノコの精緻な絵がある。しかし絵がなくとも文章はいっこうに困らない。その逆もまたしかり。

だが、その両方に共通するものがある。身辺の随筆でありながら、時としてこの世のものではない物語のように思えてくる文章。緻密な線で描かれた写実的ともいえる山菜やキノコの絵は、しかし見れば見るほど黄泉の国からでも採集してきたものを写生したかのよう。幻想的というのでは言葉が足りない。文も絵も此岸と彼岸の境界線を出たり入ったりしながらさまよっているというべきか。

この傾向は、渡辺氏が描いた、武田神社菱和殿の天井画百枚余りに文章を加えた最近の画文集『花づくし実づくし』(木馬書館)全三巻でさらに際立っている。

渡辺氏がアトリエを構える八ヶ岳南麓の住人に私も十年近く前になった。ご近所のよしみでいずれお会いできないだろうかと念願していたのが、つい最近かなった。

その折に、渡辺氏が青年のころ、小説にかなり凝ったという話を伺い、さもありなんと思った。私はいかなる文章表現にも小説的手法、すなわち技術が不可欠だと考えているからである。もっとも、渡辺氏の掌篇ともいうべき随筆を読んでいると、文章が珠玉となるには、口惜しいかな、それに加えて天性がどうしても必要らしいことを改めて思い知らされる。

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