あることないこと 

怪談話は都会でするよりは山でのほうが似合うが、それが幽霊譚であれば矛盾しているようにも思う。というのも、死者の浮かばれなかった魂が怪奇現象を起こすというのなら山よりは都会のほうが圧倒的にその確率が高いはずだからである。ただし、古くは得体が知れなくて恐れられていたことを解明していったのが文明のひとつの成果だと考えれば、文明の巷である都会では当然怪談は真実味を失う。一方、太古の自然が残っている山では、むしろ人の側に、かつては備えていたはずの霊感が呼び覚まされるという理由で迫力を増すのかもしれない。
 
それはそれ、山の怪談というと40年近く前の大学山岳部での出来事を思い出す。
 
当時、山岳部はもう不人気で、あるのは伝統だけ、部員も少なければおのずと実力も知れたもの、5月の連休に穂高で新人を鍛えたのは昔話になっていた。同じ時季なら、中房温泉から、燕、常念、蝶と縦走して上高地に下りるくらいがせいぜいで、それがすでに10年来の恒例になっていた。3泊目が徳沢なので余裕がある。
 
3年生のときには初のリーダー役でその行程をこなした。6人用テント2張りで足りる人数の半分が新人で、特筆すべきはそのうちの2人が女性であることだった。それまで男所帯だったから俄然張り切ったのを覚えている。
 
第2夜の常念乗越ではこれも恒例の怪談会となった。ひとつのテントに小さな蝋燭を囲んで車座にひしめき、代々口承されてきた話の中から上級生が各々の十八番を語る。落語と同じで反復されるうちには洗練され、語り手が上手なら何度聴いても怖い。聴き手が怖がるほど語り手は力が入る。女性が加わったことでこの夜は前代未聞の盛り上がりを見せた。
 
最後を締めくくったのが私で、その話がこうだった。
 
自分たちしかいない雪山の幕営地でのこと。ガソリンコンロを寝る前にテントの外に出しておいたのが、翌朝忽然と消えた。コンロを動物がどうにかするとは思えない。では通りかかった誰かが盗んだ?。しかし寝るときにはさっきまで降っていた雪はすっかりやんでいた。満天の星に翌日の好天を確信し、そしてそのとおり新雪まぶしい朝になったのである。したがって誰の仕業にしろ雪に痕跡が残るはずだがまったくない。コンロなしでは冬山には登れない。結局撤退する羽目になる。
 
これをいかにも自分が経験したことのように語ったのである。落ちなどはなく、なくなるはずのないものがなくなったという謎だけなので、派手さはないが余韻が残って一同しんとする。
 
実はこの話を最後にしたのには訳があって、新人たちに仕掛ける悪戯の伏線になっていたのである。つまり最終日の徳沢での朝、炊事担当の新人が前夜に外に出しておいたコンロが消えるというわけだ。我々上級生もその洗礼を受けてきた悪戯である。
 
むろん人けのある徳沢では、かの怪談のような謎めいた怖さはないのだが、そこは、あんな汚いコンロを盗む奴がいるものか、テントだから外の気配は感じるはずだ、などと我々が口を合わせて不可解を演出するし、聴いたばかりの怪談そのものの事件が起こったのだから新人たちは震えあがる。女性にいたっては泣き出す始末で、少々刺激が強過ぎたかと思った。もっとも種明かしはすぐだった。 
 
徳沢からほど近い新村橋で梓川を渡り山側に藪を分けてわずかに入ると一抱えもある大岩がある。昭和30年代、明神岳で遭難死した先輩たちを慰霊するレリーフがその大岩を穿ってはめ込んであり、この付近の山に登るときには参拝するのが山岳部員の責務だった。
 
清掃をしておけと2年生を先行させたのは、隠したコンロを碑のそばに目につくように置くためでもあった。なくなったコンロを意外なところで発見し、最初はきょとんとした顔をしていた新人たちもようやく担がれていたことに気づいて口惜しがる。それを見て上級生たちが大笑いするという毎年の光景がまた繰り返された。
 
碑を拝したのち河童橋へと歩く。時間があったのでビジターセンターに立ち寄ると、廊下の掲示板に貼られた新聞の見出しが目についた。

「私設慰霊碑を撤去へ」。日付はちょうど1年前である。
 
「槍穂高連峰での遭難死者は国内有数で、それを慰霊するモニュメントもまた数多い。国立公園特別保護地区の当地域においてこれらは言うまでもなく違法な無許可建造物にあたる。心情に配慮してこれまで大目に見られてきたが、法はあくまで厳守すべきと、確認されているこの類は今秋までに全て撤去して現状回復し、のちに合祀することになった」
 
個々の承諾も得ずにできるのかとは思ったが、上高地周辺は自然保護活動の急先鋒だから、まずはここから先例をとなったのだろう。全てとは言うものの我々の慰霊碑は人目につかない場所にあるので見つからなかったのに違いない。声に出すと藪蛇になりかねない、助かったなと互いに目配せした。  
 
と、後ろから声をかける職員がいた。
「〇〇大学の方々ですね。こちらへどうぞ」
 
入口に積み上げたキスリングに書かれた大学名を目ざとく見たのだろう。何のことだかわからなかったが、先導されるがまま奥の部屋へぞろぞろと入った。
 
「去年、たまたま私が立ち会ったものですから、つい声をかけてしまいました。まだここに仮置きしてあります」

そう言いながら職員が棚から取り上げたのは、朝方拝したばかりのレリーフだった。背後で悲鳴が上がった。

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