曰く言い難し

熱しにくいのに冷めやすい性質だから物事に興味がなかなか湧かないし、長続きもしないが、山を歩くことと音楽を聴くことだけは高校時代からの長い付き合いである。もっとも、山に登りたいと思って選んだはずの山国の大学時代は山には興味を失い、下宿の穴蔵のような部屋にこもってもっぱらジャズばかり聴いていた。
 
聴いていたのは当時からすれば二十年以上前の全盛期のモダンジャスだった。それだけ時間がたっているとすでに評価が定まったレコードが名盤カタログになっており、食費を削ってでもそれらを揃えるのが楽しみだった。要するに私は、モダンとは名ばかりで、すでにクラッシックなジャズばかりを聴いていたことになる。したがって斬新な奏法や曲を携えたエポックメーカーが次々に登場し、絶えず変化していった結果でモダンと呼ばれるに至ったジャスを同時代的に聴いていた人とはまったく接し方が違っていたといえる。
 
山の本などまったく読まない一方でジャズ雑誌は毎月欠かさず買っていたのを惰性だなと思ってやめたのは昭和が終わる頃で、とっくに社会人になっていた。モダンジャズ全盛期の演奏家や作品を入れ替わり立ち替わり特集するばかりの誌面に飽きたからだったが、一通りのレコードコレクションもできて雑誌の用もなくなっていた。ちょうどその頃、今度はずっとご無沙汰していた山歩きに再び熱中し始めたのだから、山も音楽も息の長い趣味とはいっても、代わる代わるどちらかひとつに集中しているきらいはある。
 
音楽は何かをしながらでも聴けるから、まるで縁がなくなったわけではもちろんなかったけれども、手持ちのレコードやCDで「旧いモダンジャズ」を繰り返し聴くばかりで、新しい録音を聴くことがほとんどない期間が二十年ほども続いた。
 
ところが数年前、久しぶりに逢った同じくジャズ好きの友人が紹介してくれた、名前を聞いたこともない演奏家たちのジャズが素晴らしく新鮮で、二十年のブランクを取り戻すようにその間に録音された演奏や新しい演奏をむさぼるように聴き始めた。ほとんどがヨーロッパ諸国、そして日本の、自分より若い演奏家によるものである。
 
その新鮮さは、端的に言えばジャズがアメリカのものだという常識がいつしか崩れていたことにあった。いや、むしろジャズというジャンル分けが意味をなさなくなって、ジャズの伝統に根差した音楽が国籍を問わず演奏されるようになっていたとでもいうべきか。 

いったいに音楽趣味はノスタルジーに支配されがちで、つまり自分がそれを聴いていた時代の記憶と密接に関わっているから年齢を重ねるにしたがって保守的になる傾向がある。ジャズ雑誌が十年一日のごとく昔のモダンジャズを取り上げてきたのも購読層の需要を反映していたのだろうが、いずれじり貧になるのは人の命に限りがある以上当然で、それだけが原因ではないにしろその雑誌『スイングジャーナル』は先年休刊してしまった。
 
私にも若いときに聴いたジャズにノスタルジーはある。しかし、先人を踏み台にした演奏テクニックの高度化とそれに伴う表現の多彩や華麗、録音再生技術の発達による音響的快感は、そんなノスタルジー何するものぞという魅力があった。だがこの進化は環境と教育が演奏家の裾野をおおいに拡げたことによるので、少数の天才が次代を拓いた時代とはそこがおおいに異なる。つまり、半世紀前には一人しか弾けなかった曲を今では千人が弾けるようになったということだ。
 
私が新たに魅了されたジャズ(音楽)を山にたとえるなら、その火山群は全体に洗練された山容で、高さは相当なものだが、似たようなピークがやたらと多く区別はつきにくい。裾野はだだっ広くてそれだけに平坦に近く、裾野の端であっても高い峰との標高差は少ない。そしてこの山容は現代のどんな芸術分野の山でも似たようなものかとも思う。
 
つい最近、串田孫一氏や山口耀久氏の旧い本を読み返す機会があった。それらの書かれたのがモダンジャズ全盛期とほぼ同じ時期だったことから、音楽と文学を同列にはできないかもしれないが、文学の肝心要、文章は何らかの進展をしたのだろうかと考えるきっかけになった。
 
明治や大正時代の口語文は生硬で現代人には読みづらい、言葉は生き物だから口語文の完璧な規範や完成などありえないのかもしれない、とはこの連載で前回書いたばかりだが、少なくとも私が読むかぎりは前記の作家たちの文章はすでに成熟し、現代でもそのまま通用する。
 
ならば口語文はその後発展しなかったのかと言われればそんなはずもなく、ことに八十年代のワープロや、その後のインターネットなどのテクノロジーは、日常的に文章を書く人間をおそらく有史以来もっとも多くし、さらに増加させつつある。おのずと書き手の熟達も有史以来のレベルで、なまじの玄人など裸足で逃げ出すような明快な文章が書ける素人など珍しくもないし、そもそも玄人と素人の区別は難しくなっている。にもかかわらず新たな文章が過去の作家たちを凌駕したとも言えないのは、テクノロジーは文章を道具としてのみ発展させただけだったからのように思われる。
 
それの何が悪いのか、結構なことではないかと問われたら反論が難しい。なぜなら串田氏や山口氏の文章を「ああいいなあ」と感じても論理的には説明できず、「曰く言い難し」とでも言うしかないからである。一流と言われるものや後世に残るものには必ずそんな説明不能な何かが含まれている。音楽ではなおさらで、演奏技術は必要であってもそれだけでは十分ではない。「曰く言い難し」という味わいでは、旧いモダンジャズの名盤もやはり不滅なのである。

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