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つるべ落とし

道楽で身上をつぶした話は世間にいくらでもあるが、同じ道楽でも山登りともなれば命まで失うことがあるのだから度を過ごしている。山岳書と呼ばれるジャンルには「道楽の限りを尽くしたあげくに命を落とした」と二十文字で要約できる本などそれこそ山ほどある。
 
卑俗な道楽などと一緒にするな、崇高な挑戦の果てに力尽きたのだ、と怒る人もいるだろうからそこは譲ってもかまわない。しかしどんな道楽でも本人は楽しんでいるのだから結果はどうあれ自業自得で済む。悩まされるのは主に家族や周りの人間なのだ。以下、ある山男の周辺に起こった理不尽な出来事を書く。名前は仮にKとしておこう。
 
Kは十代から山にのめり込み、世間に知られるくらいの記録も二十歳を過ぎたあたりまでにはいくつか残し、山の世界のみならず顔を知られるようになった。何事においても突出した実績を残すには英雄的な気質と行動が必要で、英雄なら色を好む。Kも例外ではなかった。まず端正な顔立ちだったし、有名に群がる女性は多い。下界でも遊蕩を重ね、泣かされた女性も少なからずいた。
 
しかしKも人の子、ついには真剣な気持ちにさせられた女性が現れて結婚することになった。その相手S子は山とは無縁で、Kの登山が命がけだと知ったのは惚れたあとのことである。Kの浮名については知っていたが、それはむしろ恋の炎を焚きつけた。
 
S子が求婚を受け入れたのは、Kが家庭を持ってまで危険な登山をするとは思わなかったからだが、甘かった。
 
長男が生れたのちもKは変わらない。しかも山だけならともかく、女癖すら変わっていないらしい噂がどこからともなくS子の耳に入ってくるに至って、産後の鬱々した心地が病的なほどに高じてしまった。そして悲劇は起こった。長男が一歳になるかならないかのとき、S子は赤子もろとも橋から川に身を投げてしまったのである。
 
この醜聞はKを表舞台から遠ざけ、さすがのKも消沈して引きこもりがちになった。山仲間とも疎遠になってしまったが、ありがたい先輩がいて、懇意にしている宿があるから気晴らしに出かけないかと折々に誘ってくれてはいた。しかし遊ぶ気分にはなかなかなれなかったのに加えて、その宿があるという山里が妻子が身を投げた橋にほど近かったことがKをためらわせていた。
 
時の流れは心痛の特効薬だが、薬効が現れるには事件から五年ほどが必要だった。やっとその気になって先輩の誘いに乗ったら、Kも一度でその宿が好きになり、ひとりでも訪れるようになった。
 
宿を営む三世代の家族の一代目はかつて猟で生計を立てていたという、山国にありがちな民宿である。その孫にあたる男の子は小学校に上がったばかりでいたずら盛りの腕白だった。M郎という名は珍しくもないが奇しくもKの死んだ息子と同じだった。
 
生きていればこのくらいになっていたのだなとKはM郎に自分の息子を重ねた。M郎もやってくるたびに遊んでくれるKにすっかりなついてしまった。Kが間をおかず宿を訪ねるようになったのにはM郎を可愛く思うせいもあったのである。 
 
初めて泊まってから一年ほどたった晩秋のこと。午後早い時間に宿に着いたKは、夕食までの暇つぶしに山に登ることにした。宿のすぐ前が登山口だというのに一度も登る気にならなかったのが、ようやく呪縛がとけたというべきか。
 
山に登るには遅い出発だが、さほど時間はかかるまいとみくびっていた。途中で引き返すのも業腹だと登り続け、やっと頂上に着いたときには四時を過ぎていた。
 
秋の日はつるべ落とし。西山に日は沈んで山の端の雲が朱に染まっている。この山の登山道はかなりの部分が昼なお暗い杉の植林地に通じていた。植林地とはいえ険しい所もあって暗闇では危ない。これはまずいと走るように下り、真っ暗になる寸前に展望台に着いてKはほっと一息ついた。
 
その小平地は片側が切れ落ちた崖になっていて、麓の街を見下すことができた。ここまでは登山口から夜目にも白い石段が整備されており、もう宿までは十分足らずである。それくらいの距離でも、宿が建つ場所がすでにかなり高いので、展望台の名に恥じない広大な眺めがあった。
 
その展望はすでに夜景で、下界には街の灯がまたたいている。灯のない黒い帯が川で、それを横切る光の破線は橋の照明だなと思ったとき、はっとKは気づいた。あれはS子が身を投げた橋ではないか。忘れかけていた悔恨が一気によみがえった。S子・・M郎・・、思わず名を呼んでしまう。
 
それに背後で呼応したように感じたのは気のせいか。しかし何かが動く気配がしたのは確かだった。振り向けば杉林の闇である。だが暗闇に慣れたKの目には、木の間にずんぐりした輪郭が移動し、そして迫ってくるのがわかった。それが何かまではわからない。熊?。とっさに身をかわしつつその物体を両手で崖側へと押し出した。勢い余っていたのか意外に軽い手ごたえだったが手の平には硬い毛の感触が残った。やはり熊だ。次の瞬間、石を巻き込んで物が落ちていく音がして、やがて途絶えた。崖の下をのぞき込んでみたが漆黒の闇がしんと拡がるばかり。 
 
山で危険な目に何度も遭っているKも熊に襲われたのは初めてだった。後ろが崖でなければただでは済まなかっただろう。  
 
動悸がおさまるのを待って、やれ助かったと石段を下る。灯がもれる宿のガラス戸を開け「おじさん、今しがた展望台で・・」と声を出そうとしたとき、帳場から顔を出した一代目が先んじた。
 
「あれっ、M郎を見ませんでしたか。迎えに行くと言って出ましたが」そして玄関脇の壁に目をやって舌打ちした。
 
「あっ、またやったな」
 
壁に飾ってあったはずの熊の毛皮がないのにKも気づいた。

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