『氷壁』 井上靖 著

古きよきハードボイルドな山男の姿
山を舞台にした恋愛小説の金字塔


この小説が新聞に連載された当時は日本隊のマナスル初登頂による登山ブームで、山男というだけで一目置かれた。そんな山男を美的に造形した主人公の魚津は当然もてる。2人の女性に想われて悩むなんてうらやましい。逆説的ながら、恋愛の成就とは、錯覚が錯覚のまま、誤解が誤解のまま終わることで、要するにその絶頂において死別することである。したがって、恋愛小説にもっともふさわしい状況は戦争下で、平和な時代なら山がおあつらえ向きである。『氷壁』は山をうまく題材として利用して成功したが、それは男女が互いを神秘に思っていた時代だったからでもあって、現代からすると夢のような話ではある。

      上高地・穂高の魅力を詰め込んで

名古屋の高校生時代、図書室に『山溪カラーガイド』が並んでいた。美しい写真がふんだんに使われたこのガイドブックの中に上高地や穂高のそれぞれ一冊があって、その日本離れした景観にあこがれるようになった。あげくには高い山々のそばに住みたくて山梨県の大学へ進学もした。
 
上高地・穂高には一種独特の魅力があるから、登山家のみならず、学者や作家などが訪れ、その魅力を語っている。
 
登山家で、しかも画や文章にも才能を発揮した芳野満彦の代表作『山靴の音』に「ゴンベーと雪崩」という楽しい文章がある。徳沢園で冬季小屋番をしていた芳野が、雪山登攀についてきた小屋の犬ゴンベーをしかたなくザイルパートナーにした話だ。朝比奈菊雄『アルプス青春記』の「穂高山冬季登山」は傑作。戦前の東大スキー山岳部が穂高で吹雪に閉じ込められたとき、遭難同然の悲惨な状況にも関わらず、まるで悲壮感のない彼らの行動が著者の軽妙な筆致によって描かれる。いずれの作品にも現代の山からは失われてしまったおおらかさが感じられ、それがすなわちこれらの旧い文章を読む価値ともいえるだろう。
 
上高地も穂高も10年前に行ったきりでとんとご無沙汰している。魅力は認めても人の多さに尻ごみするからだが、穂高や上高地を描いた旧い文章を読み返すと、彼らが見たのと変らない、岩と残雪と山麓の初々しい緑、そして梓川の流れを見に行きたくなる。 

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