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         牛奥ノ雁ヶ腹摺山(11月25日)

大菩薩連嶺に初めて足を踏み入れたのは大学一年のはじめ頃で、山梨の山のなかではもっとも古い間柄である。わが大学と山梨大学、県立女子短大の県内三大学の山岳部やワンダーフォーゲル部が親睦を深めるため、一泊二日の合同ハイキングをしたというわけだ。目的地は、そんな催しの場合まず第一の候補になりそうな大菩薩峠および嶺で、裂石から歩き出したのをうっすらと覚えている。

これは今思うに、女学生の少ない山梨大学の首謀の違いなく、女子短大と、女性が圧倒的に多いわが大学との合同ハイキングをして、あわよくばお近づきにという魂胆があったに違いない。もっともこの時は都合で県立女子短大は参加できず、何となく僕もがっかりしたのだから人のことは言えない。しかし、それにも増して山梨大学の連中の落胆はいかばかりだったか。初日の夜は、確か福ちゃん荘の前のキャンプ場で若気の至りで気炎を上げたものだが、連中の気炎は半ばやけくそ気味のように思えた。

そんなつまらないことは覚えているが、肝心の山は、それが目的なのだから登らなかったはずはなかろうが、大菩薩嶺も、大菩薩峠のことも、どうやって登ったのかも、さっぱり記憶にないのはどうしたことだろう。大学のワンダーフォーゲル部時代の山はことごとくそんな調子で、記憶が薄い。人の立てた計画について行くだけだったからそうなるのだろう。自分で計画を立てる学年になるまでクラブにいたら、また違っていたかもしれない。高校時代、自分で調べ、計画して、どきどきしながらひとりで歩いた三河や鈴鹿の山など、断片的ではあっても、その断片の印象はかなり強い。何事も自発的でなければ身につかないということか。


山登りを再開した始めの頃、もっとも足しげく通ったのは、地元の御坂山塊とこの大菩薩連嶺だった。上日川峠まで車を使えば、容易に二千メートルの高みに立つことのできる大菩薩嶺から石丸峠付近は登路の多いこともあってよく通ったものだ。

本来北から南へ、あるいはその逆で一気に縦走するのが、この山脈を味わう王道だろうが、日帰りではそれもむつかしい。北部、南部はつまみ食いで何とか足跡を残すことができたが、中部のいわゆる小金沢連嶺はずっと残ったままになっていた。

この間にあって、名の知られた山といえば小金沢山と牛奥ノ雁ヶ腹摺山と黒岳だろう。もう数年前、後者ふたつをいっぺんに登ってしまおうと焼山沢沿いに湯の沢峠へ至り、黒岳までは登ったが、天候がおもわしくなく、そこで終わりにしてしまった。そんなわけで牛奥ノ雁ヶ腹摺山は宿題として残ることになった。こんな場合は心がその山に残るので、間を置かずに再訪することが多い。しかしこの山は、日川側から直接登る径があればいいのだが、それもなく、石丸峠から南下するか、湯の沢峠から北上するしかない。車を置いての登山となると、あらゆるこぶを乗り越えてその山に達したあと、そのこぶをまた全部乗り越えて戻って来なければならない。それがわずらわしいので、なかなか実行に移せないまま時がたってしまっていた。車を二台配せばいいのだが、たかだか二人の登山に二台の車とは大げさだし、なんとなく間が抜けている。

いっぽう小金沢山は渓が妻のおなかの中にいるとき、石丸峠から往復して頂上を踏んだ。こうして、黒岳と小金沢山の間の稜線に残った朱線の空白と、そこにある牛奥ノ雁ヶ腹摺山は僕のもっとも気になる懸案のひとつとなった。

とはいえ、前述のとおり往復の縦走は気が重い。ぐずぐずしているうちに、あっという間に日がたって、もはや初冬といってもいいくらいである。このあたりの二千メートルに少し欠けるくらいの標高は、十二月ともなれば赤ん坊連れには少し厳しい。その前に、せめて牛奥ノ雁ヶ腹摺山だけでも登っておかなければと、ついに決行とした。それには、楽をするために湯の沢峠まで車で入れるうちに、という姑息な考えもあった。

湯の沢峠まで車で入れることは以前から知っていたが、焼山沢源頭部を行く径はなかなか素敵な径だし、林道は大きく迂回していて無駄な距離を走るので馬鹿馬鹿しく、なにより、山登りに来ているのにあまりに車で上まで行くの潔しとしなかったので、そこまで車を入れたことはなかった。でも一度走っておくのもいいだろうと、本当は楽をしたいだけなのに、それは二番手の理由にして、湯の沢峠まで車を上げることにした。

焼山沢沿いに登っていく舗装路は、湯の沢峠への登り口を見送ると沢から離れ大きく西に張り出していく、と同時に砂利道となる。高さを増すにつれ眺めも開け、すでに雪を頂いた南アルプスの連嶺が横並びになっている。途中分かれる林道は連嶺を輪切りにするように南北に延びる鉢巻林道だろうか。去年、石丸峠への途中で工事中の林道を横断した。それにつながるのだろう。たかだか親しくなって十年位しかたっていない大菩薩だが、ここほど風景の変わったところはない。その原因は縦横無尽の林道と林立する大送電鉄塔、そしてダム湖。嬉々として最新の電気製品を買い込み、林道を車で走る僕がそれを嘆くのである。

いくつもの工事現場を過ぎ、いくつかの林道分岐を見て、やっと湯の沢峠の駐車場に着いた。二台先着の車がいた。駐車場の片隅のやっと日が当り始めた場所に移動して朝食を摂ったが、さすがに寒い。すでに標高千六百メートルを越えているのだから当り前である。高い山や標高の高い場所の多い山梨県だし、自分の住む峠も標高千三百メートルにあるせいで標高に対する感覚がすこし麻痺しているところがあるようだ。湯の沢峠の高さの山がない県などいくらでもあるだろう。

峠へはほんの一分もかからない。申し訳ないような気がする。東側からは目と鼻の先まで山肌をえぐって林道が達している。湯の沢峠で西側と手を結ぶはずだったこの林道工事は数百メートルを残して計画が中止となった。この付近の自然を保護しようという世論に負けたというわけだが、もっと以前に何とかならなかったものか。相当な手遅れだと言わざるを得ない。ただ、膨大な予算は無駄になり、請け負った業者を潤わせただけだったとは僕は思わない。その業者はひょっとして僕の勤め先の客だったかも知れぬ。景気のよいその業者は金に糸目をつけずに店で大判振舞をしたかも知れぬ。風が吹けば桶屋が儲かるのである。土建屋が儲かってなんで峠の茶店の店員が潤わないはずがあろう。一見論理的なようで、ほとんど偶然でしかない関係で経済は動いているに違いない。

そうでなければ、こんなにおびただしい経済の本があって、それを勉強している人が多いにもかかわらず、富の再分配の不公平があったり、景気不景気があったり、国の財政が逼迫するはずはない。本当のところ、風が吹いたら桶屋が儲かるんだか何屋が儲かるんだか誰にもわからないのではないか。人間のすることである。古来、哲学や文学が人間を追求してついに果たせないままなのに、ひとり経済学だけが論理的に解明されているはずはなかろう。多分、これは人ひとりの命に限りがあることと無関係ではないと思う。

ややこしい話になってしまった。物言えば唇寒し秋の風。

白ザレの横のひとしきりの急登を終えると白谷ノ丸である。穏やかな起伏の茅戸が拡がり、人が集った跡なのだろう裸地が点綴されている。今は枯葉色が波うつ原も、前回は初夏のこととて、匂いたつような青々としたアルプだった。霧の中、弁当を使ったのを思い出す。

振り返ると、大蔵高丸、本社ヶ丸、三ツ峠と三段構えの山稜の上に富士が大きい。駐車場にあった車の人だろうか、三脚を立てている人がいた。富士山撮影の名所のひとつである。大菩薩連嶺の縦走は常に富士山に向かって歩く、北から南へ向かっての行程が一般的には好ましいだろうが、げっぷの出るくらい富士山漬けの僕は、たまに見えるくらいが雑念が湧かなくていい。

甲府盆地を隔てた南アルプスには、すでに湧き出した白い雲がへばりつき、雪の色と混じり合っている。日がな一日、こんな天上の楽園でのんびりして景色の移ろいを眺めていれば、いい写真も撮れるだろうにとも思う。日頃、旅行会社のツアーのあまりにも盛り沢山な日程を見て、馬鹿馬鹿しいと批判しているわりには、先へ先へと急ぐ僕の登山はそれとあまり変わらない。

黒岳へはまた森の中へと入っていく。途中、〈山梨の森林百選、黒岳の広葉樹林〉の立て札がある。今はすっかり葉を落としきっているが、新緑の時季ならばさぞ素晴らしいことだろう。僕が県内各地で見たこの立て札のほとんどが原生林にあった。この辺りの林はどうなのだろう。古来斧鉞の入らなかった原生林などもうほとんどないのかも知れない。大菩薩でも昔、盗伐がひんぱんに行われていたというし、古い写真を見ると、薪炭の用途で刈られたのだろうか、随分禿げ山が目立つ。戦争のせいもあったのだろう。しかし、たとえ二次林としても、この林が植林とも思えない。自然にまかせた林がこんなにも素晴らしいのなら、林業行政の何をか言わんやという気もする。

森が針葉樹林に変わると黒岳の頂上に着く。『甲斐国志』には東海の船の往来まで見えるほどの山頂だとあるが、眺望はない。当時は皆伐されて、見晴らしの良い山だったのだろうか。

黒木の森を抜けると川胡桃沢ノ頭の草原に出る。地図にはここから日川へ下る破線がある。これを探ってみるのも面白そうだ。鉢巻き林道の工事が進んでいるとすれば、いずれどこかでそれに飛び出すことになるのだから、その意味では気が楽である。

再び森の中を下って笹原の拡がる鞍部が賽の河原、シャクナギダルである。この弛みが飛雁の通り道となるところから雁ノ腹摺の名称があり、その北の隆起にそれを冠した山名がついたという。すなわち牛奥ノ雁ヶ腹摺山である。ここは牛奥の分ではないのにそう呼ぶのは、最初に研究発表した武田久吉博士の説を尊重したのが慣習化したという。

こんな話を僕は松井幹雄編の『大菩薩連嶺』(光大社)や岩科小一郎編の同名の研究書(朋文堂)を読んで知った。それは地元の猟師や杣人からの聞き取りを元にしている。山を生活の場にしていた人々にとって、沢や尾根や頂などの名前は街における所番地のようなもので、仕事に必要不可欠であったろう。だからこそ、研究者の問いにも答えることができた。でも今では、藪山を登りに行こうなどというとき、地元の人はもはやあてにならない。山仕事をしていた年寄りは減る一方だし、興味のない人にとって、山の名前などどうでもいいことなのだから。いずれ、山や沢や尾根の名前などは、その土地の人ではない一部の好事家に知られるだけとなるだろう。

それらの研究書によると、この賽の河原の一面の笹原も昔はこんなに広かったわけではなく、鹿が堀返したり、人が焼いたりして次第に広くなっていったのだという。それはともかく、ここから見あげる牛奥ノ雁ヶ腹摺山へ続く、ところどころに黒木立を配し、それを縫うように一筋の人の径が蛇行する風景は、ぜひともその径をゆく登山者を添景にして写真を撮りたくなるところだ。どこかで見たアングルだなと思いながらも、妻を先に行かせて写真を撮った。(出来上がった写真を見たら、上野巌さんの『続・山梨のハイクコース』の挿入写真と寸分たがわぬ写真であった。もっとも上野さんの写真の季節は真夏で、並べて見て、季節の対比がおもしろかった)

当面の目標であった牛奥ノ雁ヶ腹摺山に着いたら、またぞろ欲が出てきてしまった。このまま小金沢山まで行けば、大菩薩の主脈に朱線がつながる。この部分だけ残すのはいかにも画龍点睛を欠く。この機会を逃すといつになるやも知れぬ。となれば決断は早かった。よいしょっと渓をキャリアから降ろして大休止の態勢をとっていたのを、はやくも小休止に変更して、嫌がる渓を再びよいしょっとキャリアに乗せて、北へと向かう。

足さぐりに径をさがすような背の高い笹ヤブの広い尾根を進み、木立を抜ける。いくつかの小さな突起をそろそろわずらわしく思うころ、やっと見覚えのある小金沢山の三角点に着いた。

去年にはなかった山梨百名山の標柱が立っている。以前は小金沢最高点と呼ばれていたここは、雨沢の頭ともいうようだが、岩科さんによると、ひとつ南の突起がそれであって、ここではないということだ。ま、ひとつひとつの小さなコブにまで山名を与えていったのは、どうやら近代登山が始まってからの研究者であって、地元民は細かいピークに関してはもっとおおざっぱであったようだ。

北東から南にかけて眺望が開けているが、あいにく今日はそちら側から冷たい風が吹いてくる。本当の雨沢の頭との間にちょうどダム湖を見下ろす眺めの開けたザレ場があった。尾根の西側で風を避けられそうな場所だったので、そこまで戻って昼食とすることにした。

南アルプス、八ヶ岳、奥秩父、そして甲府盆地北側を巡る山々、そして言わずもがなの大菩薩嶺。あの山、あの尾根で汗をかいた身にはこの上ない展望の中でパンをかじった。

食事を終えると、渓は近くの岩でボルダリングを始める。その姿を青い水をたたえたダム湖と重ねて写真に撮った。ダムの完成は渓が生まれたのとほぼ同じだった。これから同じ年を経ていくことになる。

このダムはただ水をせきとめてあるだけのダムではない。今居る場所の真下に、大菩薩連嶺を貫いて水路トンネルが掘られていて、東側にある葛野川発電所につながっている。夜間の余剰電力でダム湖に水をポンプアップして貯めておき、昼間その水を落として発電する世界最大級の揚水式発電所だという。

一見合理的のようだが、とてつもなく無駄な感じもする。画期的な蓄電方法が発明されればこんな大げさなものは必要でなくなるだろう。渓の人生の間にはたしてそれは可能になるだろうか。

科学がそんな画期的な方法を見つけなくても、幸福の意味の質的転換をはかることで、こんな発電所はいらなくなるかもしれない。サムマネーは必要だろうが、サムマネーでも満足できるような社会になればいいと思う。しかし、それをただ思うことと、実際にすることとの間には相当大きな隔たりがあることを自らを顧みて思わざるをえない。足るを知るのは難しい。でも、渓には足るを知る人間になって欲しい。

渓が大人になったときには、この湖も今よりはずっとあたりの風景に溶け込んで違和感がなくなっていることだろう。そうやって僕たちは昔を忘れていき、そして永遠に忘れ続けるのであろうか。

この十年の大菩薩周辺、特に日川源流の変化が激しかったので(知らないだけで、葛野川源流も似たようなものだろう。そして日本中でも、いや、たぶん世界中で)、大菩薩の話になると、失われていくものへの哀歌になってしまう。それでも、それら失われていくものがこの山域の魅力を根こそぎ持っていったわけではない。だいたい山には何の罪もない。僕が知っているのは、ほんの一部分にすぎない。まだまだ歩いてみたい未知の場所がいくらでもある。また家族で訪れたい。

再び渓を背負って帰途につく。一日で南から北から二度縦走することになる。同じ径でも方向が逆になれば全く違う風景を見ながら歩くことになる。尾崎喜八さんの『山の絵本』に「来る時には気のつかなかった風景が、戻りには意外の美しさで目を瞠らせること、殊に山旅にはよく有る例である」とある。往復同じ径というのも、そんな意味ではなかなかぜいたくなのかもしれない。ものは考えようである。

湯の沢峠への下りを残すだけになった白谷ノ丸で最後の休憩をした。すでに西の方、随分低くまで落ちた日の光が、茅戸を金色に染め、遠く、大蔵高丸、大谷ヶ丸と続く尾根を越え、大気の塵を集めた光の柱となって、斜めに真木の谷へと差し込んでいた。

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