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「展望の山旅」という特集に書いたものです。この号には、甲斐駒を眺められる道ということで、JR中央線の日野春駅と長坂駅を結ぶ「オオムラサキ自然観察道」の紹介もしました。写真家の中西俊明さんに撮影してもらいながら、家族で歩きました。すばらしい展望の得られる日でした。たかだか3時間くらいの間に中西さんは250枚もの写真を撮ったといいます。機材の入った重いザックを背負って、前に行ったり後ろに行ったり、さすが山岳写真家というものは体力がすさまじいものだと感じました。

   
 甲斐駒讃歌
               
甲斐は山の国、名山は多い。その中から五山を選べば多分こうなる。富士山、北岳、金峰山、八ヶ岳(赤岳)、そして甲斐駒ヶ岳。

名山の資格には、より高いことがまず挙げられるだろうが、これは即ちその山を 眺められる範囲が広く遠くに及ぶことを意味する。ところが近くに寄ったらどうだろう。火山は別として、たいていは、たとえば北岳のように前山に隠れて見えなくなってしまう。

それに比べ、甲斐駒は人里の背後 に突兀と盛り上がり、雪と見まごう花崗岩の白さとあいまって、近くに寄ってもなお自己顕示ぶりを発揮する。これが甲斐駒の特異な価値である。

残雪の山に桜をあしらった絵や写真は、富士山に代表される独立した火山にはあるが、連嶺中の3000メートル級の山が単独で組み合わされて絵になるのは、甲斐駒をおいては他にないのではなかろうか。里から一気に盛り上がった山だからこそである。


娘を連れて2度甲斐駒ヶ岳へ登ったことがある。正確に言えば、背負って登った。娘が0歳と1歳の時である。

当時僕は、御坂山地にある、富士の眺めを売り物とする茶店に夫婦で住み込んで働いていた。山暮らしには憧れていたが、富士に魅せられて選んだ職場というわけではなかった。娘はそこでの暮らしが15年近く続いていたころ生まれた。すでにその地での生活を終わりにしようと漠然と思い始めていたころだ。長く同じ場所に居すぎた。目の前にいつでもある富士は、日々の倦怠の象徴だった。その大きさが頭を圧した。その整った姿にうんざりした。結局僕は、そこからの自己主張し過ぎる富士を心から好きになれなかった。

茶店のすぐそばの、御坂の山に穿たれたトンネルを抜けると頭上が開け、甲府盆地の西から北の山々が眺められた。

南アルプスの長大な山脈が甲斐駒の金字塔でピリオドを打つと、一旦下った釜無川のくぼみから富士のそれのように優美な八ヶ岳の裾野が始まる。しかしその裾野は富士のように整ったコニーデになることなく破綻し、富士の端正にうんざりした僕を喜ばせた。そして八ヶ岳の右には重厚そのものの奥秩父の盟主金峰山。大気の澄み切った真冬には、釜無川のくぼみの奥に槍穂高の銀屏風が浮かぶこともまれではなかった。

ああ、自由の群雄たちよ。

休日には山歩きをするのが楽しみだった僕たち夫婦は、娘が6ケ月を過ぎたころから、背負子に乗せて3人で山へ出かけるようになった。以前から、八面玲瓏の富士の対極のような無骨な甲斐駒、即ち摩利支天と鋸岳を両翼に従えた姿にひかれ、そんな甲斐駒が眺められる周辺の山や麓の町村によく出かけたが、それがさらに多くなった。

果ては、9ケ月の娘を背負い、北沢峠から美しい白砂の頂上にも立った。さらにはその翌年、懲りもせず娘を背負ってまた登ったのは、甲斐駒の見える場所へ住もうという考えが徐々に固まっていたからだったかもしれない。いつもこの山を眺めていた広大な八ヶ岳の裾野や、お膝下の村落を頂上から見下ろし、そこに住む自分を想像した。もう4年前のことだ。

想像は現実となった。今、娘が通う保育園の周りを、甲斐駒を筆頭に、かつて遠くに見た自由の群雄たちが取り囲む。そして、遠く御坂山地の上には、さらに端正な姿となったが、決して眼前を圧しない、ほどよい大きさの富士がある。

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