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         富士山二ツ塚 2009.6.18



ロッジを出発時にはすでに小雨が降っていたが、富士山方面は午後から雨の予報だったから、早めに下れば何とかなるか出かけることにした。

御坂トンネルを抜けると富士がほぼ全容を現した。河口湖で渡辺玉枝さんと合流、御殿場を目指す。ところが籠坂トンネルを抜けると、また富士山は雲にすっかり隠れてしまった。

結局、行動中霧は一度も晴れず、まさしく五里霧中だった。ハイキングコースだというのに満足な道標もなく、方角を定めて高い方に登っていったら昭和47年3月に起こった遭難の慰霊碑に出くわした。碑文は新田次郎による。

帰ってから調べてみると、犠牲者24人にも及ぶ、山岳遭難史上最大の事件だったらしい。当時は相当な騒ぎだったろうに、まったく記憶になかった。

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「富士山で24人凍死 」

昭和47年3月20日、富士山の宝永山(2700メートル)御殿場口付近を下山中の登山客が、底雪崩や猛吹雪で次々に凍死、犠牲者は24人に及んだ。3月19日夜から富士山は猛吹雪で、3月20日午前1時から午前8時15分までの間に、御殿場口の新2合目、加藤小屋を中心に3ヶ所で底雪崩も発生。清水勤労者山岳会の遭難者10人は、ロープにつかまりながら、1人倒れ、また1人というふうに凍死していった。静岡市頂山岳会の7人、平塚市の日産車体の4人、単独登山者3人も犠牲となった。

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何といっても「お山は晴天」である。何も見えなかったでは登った甲斐がない。この恨み晴らさんと二ツ塚は翌年の同じ時期にまた計画し、そのときは季節はずれの雪が降った直後のすっきりした晴天になって、滅多に見られない景色を楽しみながらの山歩きとなり、溜飲を下げた。

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