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         身延山〜赤沢宿 2006.12.14



七面山の参詣客は今でも絶えることはないが、それは角瀬からの入山がほとんどで、久遠寺にお参りし、奥ノ院、感井坊を経て赤沢宿に下ったのち羽衣へと歩く人、つまり身延山越えをする人は今や稀であろう。

かつて信者でにぎわったという追分感井坊の写真があるが、写っているのはまだきちんと建っているほうで、道を隔てた向かい側の建物は、屋根が波打って倒壊寸前である。

早川下流の集落がおそろしく高所にあるのは、もともと川の氾濫で安心して人の住める場所が川岸近くにはなかったからで、角瀬に人が住み始めたのも、治水技術が発達したつい昭和の初年のことだったという。当然、それから七面山参拝の主流がこちら側に移ったのだろうから、少なくとも大正時代までは、信徒の群れが身延山から赤沢宿へと連なっていたのだろうと想像されるのである。

今や廃れた信仰の道筋をつまみ食いで歩いてみようというのがこの日の木曜山行だった。まず角瀬に車を置き、タクシーで久遠寺へ向かった。この年の冬には、雨の表参道を身延山頂まで登った。今度こそは好天といきたかったのだが、あいにく久遠寺あたりは霧が立ち込めていた。

ロープウェイ利用なのだから、このくらいは登ろうと、三門から菩提梯をヒーヒーいいながら登った。木曜山行でこの石段を登ったのはこの一回だけである。結局、これがこの日のほとんど唯一の登りとなった。

ロープウェイであっという間に登った身延山頂では雲の上に出て、富士や南アルプスこそ隠れていたが、周辺の山々は眺めることができた。追分感井坊からの道は地図では破線だが、ほぼ舗装された車道であった。ところどころにかつての参道を偲ばせる杉並木が残っていた。

赤沢宿では、有名な石畳がこの日最大の難所となった。石の表面の湿ったコケが恐ろしくすべるのである。道の端をおそるおそる歩いた。なるほど、石畳とはわらじの時代の産物なのだと思ったことだった。

(2015.2) 木曜山行報告へ

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