縞枯山(6月23日)
早朝に起きると小雨が降っていた。前日の天気予報よりさらに悪い天気のようだ。先週の仙丈ヶ岳で勢いづき、北沢峠から今度は甲斐駒ヶ岳に登ろうと考えていたのだが、この天気では先が危ぶまれた。
それでも山梨県は郡内地方と国中地方を分ける御坂山塊を境に天気が違う事がよくある。僕たちの住む茶店は郡内で、茶店のそばの御坂山塊に穿たれたトンネルを北に抜ければもう国中となる。それに期待をかけて甲府盆地に下っていったのだが、盆地の空にも重く雲が垂れ込め、白峰も甲斐駒も手招きをしてくれなかった。
甲斐駒ヶ岳は諦め、久しぶりに麦草峠から縞枯山に登ろうかということになった。
山登りを再開して間もなくの頃は、二十代の終わり頃とてまだまだ宵っ張りの朝寝坊で、休日はなおさら朝早く起きることができなかったから、おのずとごく近所の山や、車で高くまで登ることのできる山に行くことが多かった。日帰りで高い山を目指せるようになったのは結婚してからで、より休日を山で有効に過ごそうとするなら、とにかく朝早く起きることが何より重要なことにようやく気付いたわけだ。といっても山に登る日だけ早く起きられるわけがない。普段から早寝早起きの習慣をつけておく必要がある。今の僕は赤ん坊より早く寝てしまうこともしばしばだ。
まだ朝寝坊の頃、八ヶ岳に行くといえば、麦草峠周辺を中心とする北八ヶ岳を指していた。車が二千メートルをはるかに越えるところまで運んでくれるわけだから、手っ取り早く亜高山の雰囲気に浸れるというわけだ。山口耀久さんを嘆かせそうな、実に安直な「北八ツ彷徨」ではある。
それでも、車で行くといっても麦草峠までは結構距離があり、初めて縞枯山に登った時、麦草峠を出たのはすでに午後になっていた。十月の終わりとて、茶臼山から眺めた、南に連なる八ヶ岳の山並みにはすでに西日があたっていた。山名の由来の現象を間近に見ながら縞枯山に辿り着き、頂稜の東の端からもう一度展望をほしいままにしたあと、雨池峠から雨池に下った。この時の雨池は水を満々とたたえていた。夕暮れの誰もいない池を一周した。雨池峠に日が沈み、鏡のような水面に映り込む、シルエットになった四囲の山々の姿も荘厳だった。
昭和三十年代の朋文堂のガイドブックで、山口耀久さんは「やがて麦草峠を越えるバス道路が開通すれば、この池の水辺にも俗臭がただよいはじめる運命はさけられない。そしてその時期もそれほど遠くないことを思うなら、ひとはいまのうちにこの美しい山の湖を訪ねておくべきである」と書かれているが、バス道路は通り、すぐ近くに林道がつけられてはいるものの、幸い小屋も建たずボートも浮かばなかった池畔にいるかぎりは、未だ奇跡的に俗臭がしない。太古の昔とはいわないまでも、山口さんら先駆者が入り込んだ時に見た風景を今だに見ることができるのではないだろうか。だが、それはいつ訪れてもほとんど人影を見なかった僕の印象によるもので、交通の便が良くなって、気軽に訪れられるようになった大勢の行楽客が池畔をそぞろ歩いていてでもいたならまた違った印象を持ったかもしれない。もっとも、僕もその行楽客そのもので、雨池に俗臭を持ち込んでいるひとりには違いない。
それでも、いかにいまだ俗臭がしないとはいえ、山口さんが創刊間もない頃の『アルプ』に書かれているような、藪を漕いで雨池に達したり、誰もいない池畔でテントを張って焚火をしたり、筏を作って池に漕ぎ出したり、合唱したりなどという雨池暮らしは、もう望んでもかなえられないことになってしまった。自由なフィールドを僕達は自分でせばめているようだ。
大石川林道を経て麦草峠への径に入る頃には、秋の日はつるべ落としで、すでに暗くなっていた。懐中電灯のない僕たちは、ライターの灯りだけをたよりに、縦横に木の根が張り出す苔蒸したシラビソの森の中を歩いて行った。心細く、ひどく長い道のりに感じられた。麦草ヒュッテとおぼしき灯りが行く先にまたたいて見えた時には心底ほっとしたものだった。
その後も麦草峠を起点に、北へ南へとあらゆる山径を歩き回った。
旱天の年の九月、北の端にわずかの水を留めるだけになってしまった雨池の中央まで歩いていき、巨大なコロシアムの中心に立っているような気がしたこともあった。
縞枯山はその後、ある年の初夏の一日に再度訪れようとしたが、さっぱり霧の晴れない日で面倒になり、手前から五辻に下ってしまった。麦草峠への帰途、近くにオトギリ平の地名もあるようにオトギリ草がよく咲いていた。蕾の赤と開いた花の黄色の対比がおもしろかった。国道に出ると側溝の中にけなげにもテガタチドリが咲いていた。おや、こんな所にと顔を近づけるとえもいわれぬいい香りがした。
今は松原湖から麦草峠へいい道が通じるようになった。以前はいったん八千穂村まで北上した後、戻るようなかたちで峠へ達したので、随分近道ができるようになったわけだが、これは大きなリゾート施設ができたのと同時に道が整備されたからで、できた道は利用してしまうものの、以前白樺尾根を下ってきた時、この施設の中にあるスキー場の隅に追いやられた登山道を苦々しい思いで歩いたことを思い出す。
国道二九九と合流して、すでに亜高山の林相となった中を、道は羊腸にカーブをくりかえす。この道はメルヘン街道と名付けられているらしい。こんなところにハイウェイができるなんておとぎ話のようなものだということか。ちょっと口にするのは恥ずかしい名称である。
突然雲が割れて青空が覗き、陽が射しだした。おっ、雲の上に出たのかと思ったのも束の間、白駒の池入口を過ぎる頃からまた霧の中となった。麦草峠の駐車場にも車はまばらだった。土曜日曜には車であふれかえっているのだろうが、幸いにも僕はそんな光景を見たことはない。車に頼らなくてはどの山にも登れない僕にとっても他人事ではないが。
こんな天気ではあまり気乗りがしないが、ここまで来て帰るのももったいない。北八ツは霧の中でも味わいがあるように言われるが、少なくとも天気が悪くて良かったということはないだろう。どんな山でも晴天がいい。
渓を背負って歩き出す。梅雨時ゆえ、登山道はまるで川のようになっている。登山靴で踏まれて土が削られていくことにも原因があるのだろう。人がぬかるみや水たまりを避けるように歩くのはごく自然の行為である。しかしそれによって登山道が広くなり、草地や森を浸食していくことになる。こころなしか以前より径の状態が悪くなっているようにも感じる。
はじめて眺めの開ける中小場も霧の中とて素通りし、茶臼山まで登って一本立てた。もちろん霧の中である。霧といっても身体が濡れるほどではないので我慢の範囲だ。
五辻への分岐がある鞍部までいったん下って、枯れ木の森と緑濃い木の森を交互に見ながら登っていく。縞枯現象の中を登っているわけだ。
見晴らしのよいはずの頂稜の一角に出る。小広くなったところで昼食を摂ることにして、荷物を置いて縞枯山の最高点まで行ってみる。ほんの数メートル高いだけでもその場所に到達しないと何となく画龍点睛を欠くような気がしてならないのは、山登りの根本に関わることかも知れない。しかし、縞枯山の山名標示は、登山道が雨池峠への下りにさしかかって直角に折れ曲がる実に不粋な地点に道標を兼ねて立っており、そこが最高点なのかもしれないが、わざわざ行ってみるほどの価値があるとは思えなかった。二回目だが、そんな場所なせいか前回の記憶もまったく呼び起こせなかった。
元に戻って草むらの中でパンをかじった。以前はガソリンストーブを携行して、それなりに暖かいものを食べたりしたが、渓を背負って歩くようになってからは、なるだけ荷物を減らすためにそういう贅沢品は排除するようになった。食事もほとんど軽いパンになってしまった。山の中では何でもうまいし、日帰りの山など、ごちそうは里に下ってからで充分だ。
景色はないが、のんびりした平和な気分に浸っていると、このくらいの山が赤ん坊を背負って歩くには適当かもしれないなと思ったりする。
天気が良くなれば、雨池をまわってと思っていたのだが、霧の中を歩き続けるのにも飽きて、また来ればいいと五辻へ下った。
冷山歩道の途中から、まだ歩いていなかった、オトギリ平への川のようになった径をたどった。オトギリ平で一服して、親子三人で記念撮影したりしたあと、その先で岩の累々とした中にコケモモの群生がある園地を通り抜けるとすぐ国道だった。展望はまったくなく、でもおかげで誰ひとりに出会うこともない静かな山歩きだった。
まだ時間も早いので久しぶりに茅野側に下って帰ることにした。
二万五千分の一地図『蓼科』を開くとその右半分と左半分の対称には誰もが目を見張るに違いない。右半分はコンターの流れもおおらかで、いかにもなだらかな北八ツの山並みを想像させる。一方左半分はコンターがほとんど見えない。別荘地にまさしく網の目のようにはりめぐらされた道路で見えなくなっているのだ。まるで蟻の巣のカットモデルを見るようだ。そして多くのゴルフ場。こういった開発を促すのは、もっといい生活をしたいという向上心ゆえだと思われる。向上心も一種の欲望である。足ることを知らなければ、いずれ身を滅ぼすだろう。
俯瞰すれば凄まじい景色も、ただ車を走らせているだけでは緑したたる高原のドライブで、結構さわやかなので始末が悪い。
途中、ひと風呂浴びようと明治湯に寄った。渋川を隔てたすぐ北には大別荘地が控えているにもかかわらず秘湯の趣がある。明治時代の開湯だからそう呼ぶのかと思っていたら、ずっと古くからの湯治場で、明らかに治るからその名称があることを知った。
渋川の渓谷を見下ろす誰ひとりいない風呂場には、熱い湯の浴槽と、冷たい源泉が木の樋を伝って打たせ湯になって注いでいる浴槽がある。
その音がすさまじい。外からの沢の音と相いまって、まるで滝壷にでもいるようだ。これでは連れがいても話もできないだろう。最近はどこの温泉に行っても湯が滝のように音をたてて流れ込んでいることが多い。豪快で贅沢に見えるからなのかもしれないが、僕は自分のたてる水音だけが聞こえるような風呂が好きだ。風に揺れる木々の葉ずれの音が聞こえるような露天風呂が好きだ。
源泉を張った浴槽の中は人が通り抜けられそうな穴で女湯の浴槽とつながっていた。女湯にも他人がいないことを確かめて、風呂に潜って侵入する。久しく海やプールで泳いでいないので、頭まで水に沈めるのは二十年ぶりかもしれない。その異様な感覚を思い出しつつ女湯に飛び出す。洗い場にいた渓が、突然現れた親父に似た半魚人をいぶかしげに見ていた。
風呂を出て茅野に向かって車を走らせているうち、学生時代に茶店でアルバイトをしていて、今は諏訪市役所に勤めるN君のことを思い出した。N君とは彼が学生時代には瑞牆山や信濃川上の天狗山に登ったり、
卒業後も北岳に一緒に登ったりした山仲間でもある。
久しぶりに会って諏訪で一杯やるのも悪くないと思い、役所に電話をして呼び出してもらい、都合がついて市内の居酒屋で歓談となった。彼が渓に会うのは初めてである。
その時にN君がその秋に結婚することを知らされた。「ええっ、本当か、それはめでたい」と、ますますメートルがあがったものだ。そして、山帰りに人に会うことなど滅多にない僕にとって、N君の結婚と霧の縞枯山が分かちがたく結び付いてしまった。
霧の縞枯山とはいささか意気が上がらず、N君には気の毒だが、結婚生活がいつも晴天の爽快な岩登りのようだとは限らない。むしろ縞枯山のしっとりした雰囲気のほうがふさわしいのかも知れぬ。縞枯現象が規則正しい栄枯盛衰を表すとすれば、それすら意味深長にも思えて...
いやいや、つまらぬこじつけはよして、井伏鱒二訳で有名なこの漢詩をN君達へのはなむけとしよう。ありきたりな虚飾に満ちた祝い言葉よりも、どこかニヒルな感じを漂わせるN君にはこんな詩こそふさわしい。
勸 酒 干 武 陵
勸 君 金 屈 巵
滿 酌 不 須 辭
花 發 多 風 雨
人 生 足 別 離
「サヨナラダケガ人生ダ」そうかも知れぬ。しかし逢瀬がなければサヨナラもない。それを大事にすればいい。
いずれ、N君や彼の妻となる人とともに晴れた北八ツを散策するのも楽しかろう。八ヶ岳は、諏訪生まれの彼らにとって、母なる山でもあるのだから。
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