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                    両神山(11月17日)

渓が生まれて間もないころ、妻子を家に残してクリオだけを連れ、未登だった破風山を目指したことがあった。三富村の西沢渓谷の入口に車を置いて近丸新道を登り、木賊山の東で奥秩父主稜に出、破風山、雁坂峠を経て周遊した。単独行ならではの強行軍だったが、天候に恵まれて晩秋の奥秩父を一人占めしたものだ。もっとも、単独行がより多くの自然からの問いかけを得ることができるというのはちょっと眉唾で、そんなものは個人の気の持ちようである。山にあっても人と一緒であらばこそ倍加する喜びもあるはずで、そうでなければ人から人など生まれてはこない。

雁坂峠からは何度も通った勝手知ったる径なのだが、この径は真下を通る雁坂トンネルの工事のせいで来るたびに変化する。このときも最後の最後で、以前はすでに完成していた短いトンネルで近道できたところが歩かせてもらえず、余分な山越えをする羽目になって「ええい、いまいましい」と思った。一度でも楽をすると忘れられないのが人間というものかもしれないが、わざわざ山で暇つぶしをしている者までがそんな風に思うのも変な話ではある。

ともかく、初めて来たときには工事車が走り回り、資材が所狭しと積み上げてあった山梨側の入口もいつの間にかきれいに片付き、料金所のゲートも完成していて料金表も掲げられ、数ケ月後の開通を待つだけとなっていた。

今年、長らく開かずの国道として有名だった国道一四○号線がこのトンネルによってついに埼玉県とつながった。もっとも、それは自動車が通行できるようになっただけで、トンネルが開く前は峠越えの登山道が国道だったという。歩く分には立派に開通していたわけだ。さて、このトンネルがどんな恩恵をもたらすというのだろう。僕なぞは埼玉側に車を一台置いておけば念願の雁坂峠越えができるなとか、これでやっと両神山に登れるとしか思わなかったのだから山狂いにも困ったものである。

両神山は、八ヶ岳をはじめいろいろの山からその台地状に盛り上がった上に鋸状の岩塔を連ねた姿を見てきてはいた。しかし、これまでもし登るとすれば大回りして行き帰りに東京郊外の人口密集地を通過しなければならなかった。日程に余裕があればいざ知らず、日帰りの山で朝晩東京の市街地を通るなんて考えただけで億劫になる。そんなわけでこの山は雁坂トンネル開通後の案として残してあったのである。だから開通後はずっと頭の隅にあった。新緑の時季が良さそうだったが、それはすなわち有名なヤシオツツジの開花期でもあるので、何といっても人気の深田百名山だ、人もさぞ多いことだろうと敬遠した。写真で見る限りいかにも狭そうな頂上に人が鈴なりになってでもいたら目も当てられない。

暑い時季に登る標高でもないので、ぐずぐずしているうちに、はや晩秋になってしまった。山梨から行くとき最も近い登山口で、車で行って周遊でき、最短距離で登れるという八丁峠から、鎖場の多い八丁尾根を辿る腹づもりだったから、雪でも降ったら手強くなってしまう。そんなわけでやっと重い腰をあげたというわけだ。初めて登る山はわくわくもするがなんとなく腰が重い。


暗いうちに起きると、部屋の障子越しに空が雷光で明るくなるのが見えた。はてそんな悪い天気なのだろうか。だいたい雷鳴がない。岩場の多い山とて犬連れというわけにもいくまいと、出発前にクリオを散歩させるため表に出るが、別に重く雲が垂れ込めているわけでもない。朝の富士を狙うカメラマンの車がもう数台止まっている。クリオとまだ暗い車道を歩いていると、またまるで昼間のように一瞬まわりが明るくなった。

その時やっと合点した。そうか、流星だ。まえまえから騒いでいた獅子座流星群がもっとも多く見られるという日の、この日は前日だったのである。

それにしても明るかった。前回この流星群が地球に近づいたのはもうそうとう昔の話だという。その時書かれた絵を新聞か何かで見たことがあった。降り注ぐ火の粉のように流れ落ちる星の下で人々が畏怖し怯えるといった図柄だった。なにを大げさなと笑ったが、実際に見てむべなるかなと思った。もう一度を期待してしばらく空を眺めていたが、それだけだった。いったい僕は天文に疎い。太陽と月しか区別がつかぬ。獅子座流星群にしても大して興味はなかったのである。

山と星といえば野尻抱影である。明治の甲府の街や、そこから仰ぐ白峰を描いた文章を読んだ僕は、もう失われたものと、いまだ厳然として在るものを想い、悲しいような嬉しいような気がした。失われたものはただ具体的な事物だけでなく、たとえば抱影から小島烏水に宛てた文面の絢爛たる色彩の語彙や、感動を何とかして文章で伝えようとする真摯な態度も含まれる。僕たちはカラー写真やビデオをはじめとする、物が簡便に記録伝達できる利器によって失ったものも数多くあるようだ。

ただ星の話となるといまひとつピンとこなかった。これは僕の想像力が貧困なせいである。山を好きな人は多かれ少なかれ人の世の無常に比した山岳の常に憧れるところがあるだろうが、抱影はさらに星にまでその想いを致したのだろう。度しがたいロマンチシズムである。けなしているのではない、羨ましく思っているのである。凡俗の僕は星を見あげていると、自分が何でここにいるのかわからなくなって収拾がつかなくなるので、そこで考えるのをやめてしまう。ま、しかし、オリオンくらいは覚えることにしよう。


両神山へ行く朝はこんな風に始まった。まだ寝ている妻子を叩き起こして出発する。三富村の広瀬湖までは走り慣れた道ゆえ、車窓に目新しいものがあるわけではない。話題はもっぱら早暁の天体ショーに終始した。まるで自分が星を流してみせたかのように自慢した。

広瀬からはいよいよ初めて走る道である。笛吹川左岸の西沢渓谷入口で終わっていた道は、そこからぐっといったん右岸の方へ大きく張り出し、カーブを描いてまた左岸に戻ってくる。そして道は雁坂峠への登降のさいにいつも見上げてくぐった東沢大橋、歩いて通っていた短いトンネルを経て料金所となる。

長いトンネルの途中、県境の表示がある。この真上が雁坂峠かと思うと不思議な気もする。歩けば一日がかりの峠道もトンネルを車で行けば数分で通り抜けてしまう。

国境の長いトンネルを抜けるとそこは山国だった。山の中から出てきておいて何を言うかと言われそうだが、そう思ったのだから仕方ない。ここは秩父の奥なのだから文字通りの奥秩父であって、その名からくるイメージがぴたりとくる。いわく昼なお暗い黒木の森。いわく山岳重畳として奥深い。

いったいに、この山域の甲武国境は甲州に明るく武州に暗い。これは単に南北の違いだけではなさそうだ。それが証拠に甲武信岳から西に甲信国境に至れば、別段北の信州側が暗いということもない。これはそこにある平地の広さに起因するようだ。甲州側には甲府盆地の広さがある。信州側にも川上平や野辺山原のあっけらかんとした平地があって空が広い。ところがここ大滝村にはほとんど平地がない。山また山の谷間の斜面にわずかに人の住む土地があるばかり。雁坂トンネルは埼玉側の取りつけ道路の段階ですでに難工事で、時間のかかったのはそのせいだとも聞いた。さもありなん。

道は栃本関の手前で新しくできたトンネルに入る。出たところは中津川の上。目もくらむような高いループ橋でいったん川べりまで下って、やっと中津川に沿った道に入る。いずれこの辺りはダム湖に沈むらしい。橋の異常な高さはそのせいだったのだ。

上流に進むにつれ川の両岸は次第に狭まり見事なV字峡となる。全般に色付きの悪かったこの年の紅葉だったが、その中では最高だった。新緑もさぞやと思わせる。

中津峡は原全教さんの『奥秩父』で知った。昭和の始めにはすでに中双里まで自動車道が通じていたという。その奥へも延長中で、「実現すればこの峡谷にとって致命傷であろう」とある。致命傷になったかどうか昔を知らない身にはわからないが、その当時より良くなったはずはないのは確かだろう。その上車で通過するだけでは歩いて探勝した原さんの百分の一も渓谷の魅力を味わえないのも確かである。

中津川本流から分かれて神流川に沿った道に入っていく。さらに谷は狭まり両岸は峙ち、圧巻となる。すこし辺りが開けて、いくつかの廃屋がたたずんでいるのを見、狭くて長い雁掛トンネルに入る。

トンネルを抜けると金山沢に沿った鉱山の集落に出た。ここは古くは武田時代にすでに鉱山として栄えていたという。それがこの金山沢の名に残っているのだろう。昭和初年に原さんが訪れた時には大正のはじめに再び栄えたのがすでにまた廃墟となって、兵どもが夢の跡だったという。その後石灰採掘でまた栄えたのだろうか。道沿いにはたくさんの建物が立ち並び、その多くは社宅のようだ。しかし、人の住んでいる気配はない。今また廃れていく途中なのだろうか。操業はしているようだが、もう盛りは過ぎたということか。いったいに、人のいなくなった集落はそれが最近であるほど生々しく物悲しい。いなくなった人々の生活の物音がまだ聞こえてくるようだ。人の世のうつろいを両神山をはじめ、まわりの峨々たる山々はずっと見ていたというわけだ。気の遠くなるような時の流れの中では山もまた絶対に揺るがない存在ではなかろうが、僕が考えうる時間の中では山は不変である。僕が山へ向かうのは、そんな絶対不変なものへの憧れがあるからだろう。

いくつかの屈曲を繰り返し、やっと八丁峠の登り口の上落合橋に到着した。午前八時。御坂峠から二時間で着いたというのに初めての道は遠く感じる。ここまでで、はやひと仕事終えた気分である。この文章も肝心の山に至るまでにもう長く書き連ねてしまった。それには理由があって、八丁峠から山頂に至るまでは難場の連続で、背中に渓もいることだし、目の前の課題を片付けるのに必死で、そのいちいちを味わい吟味している余裕がなく、終わってみるとあまり記憶がないのである。かくて、山の中の出来事よりそのアプローチのほうが印象に残ってしまったというわけだ。

有名な登攀記などを読むと、どんな緊張の場面でも微に入り細を穿って書かれているが、よくもあれだけ記憶できるものだと感心する。どんな頭の構造をしているのだろう。冷静沈着に難所をこなすだけの実力があるからだろう。実力のない僕なぞ、岩場を見ると頭に血がのぼって「ようし、やってやる」とばかりがむしゃらに登るだけだ。

広いとはいえない駐車スペースには一台の車が止まっていて、中高年の男女五人が出発しようとしていた。追い越し追い越されするのも厄介なので、僕たちはゆっくり朝食を摂った。

出発したのはもう九時近かった。はじめ沢沿いだった径はやがて山腹を屈曲して高度を上げる。八丁峠間近は穏やかな自然林がもうすっかり葉を落として、いかにも晩秋の風情である。峠に出て一段上がったところにベンチがしつらえてあったので休憩した。

すぐそこに見える尾根ひとつ越えればもう上州である。甲州の山ならばたいていの山は指摘できるが、ここでは見知らぬ山ばかり。新鮮だがよそよそしい感じもする。北側なのに明るい感じがするのは、見渡す山が低いのと、山と山の間が少し広くなったからだろうか。採掘によって白い台地状になってしまった叶山が目をひく。石灰を採るために形の崩された山は武甲山が有名だが、そんな山は全国至るところにあるのだろう。人の手にかかれば山もまた無常ではないということか。しかし、これらの山を崩して造ったコンクリートの箱の中で暮らす僕たちが何をか言わんやである。

いよいよ鎖場が現れて、それを登り詰めると行蔵峠と書かれた埼玉県の標識のある峰に着いた。ここは前述の原さんの本では行蔵坊という名前の峰のはずである。信仰登山華やかりしころ、八丁峠道にお堂があって、それに行者が籠ったことから行蔵坊といい、その対面の沢と頭の峰にその名が付いたと記されている。いつの間にか坊が峠と誤って伝えられたということだろうか。予算を使って標識を建てるくらいなら少し調べればいい。行政がそんなものを建てるとそのまま定着してしまうので始末に悪い。だいたいどう見てもここは峠ではない。

次の西岳から東岳の間が険しかった。その途中で先発の五人連れに追いついてしまった。山では赤ん坊連れは珍しい。話しかけられることが多い。そんなきっかけで親しくなれたらそれも楽しい。

西岳東岳間の最低鞍部への下りで、再び先行した五人の後ろで妻がうっかり落石を起こしてしまった。「落っ!」大声で叫ぶ。ちょうど五人が大岩を巻いて下って、その下に姿が見えなくなったところでその岩の上を石がバウンドして落ちていったので、これはまずいと思ったのだが、幸いだれにも当らずに済んだ。自分が当るより人に怪我をさせるほうが恐い。

ようやく辿り着いた東岳で、もう一度非礼を詫びた。五人の誰もカメラを持って来なかったようなので、僕のカメラで記念写真を撮って、あとで送ってあげることにした。そのくらいはさせてもらわねば。

簡単な鎖場を越すと頂上の一角だった。林を抜けると木造の祠のある最高峰剣ヶ峰だった。四方八方に長く険しい尾根が張り出し、だんだん模糊として彼方に遠ざかっていく。それを見ると両神山は奥秩父の一峰というよりは、独立したひとつの山地といったほうがふさわしい。

遠望のきかない日だった。奥秩父主稜はうっすらと黒い壁のように連なっている。いつも見ているのと逆の並びになっているから同定がむずかしい。

少々寒いがいつものとおり頂上での昼食とした。五人連れも着いてにぎやかになる。表口から登ってきた何組かのグループも着いて弁当をひろげる。せいぜい十数人がいるだけで狭い頂上は混みあった感じがする。ヤシオツツジ咲く新緑の休日ならば想像するだに恐ろしい。

風も強いのでそろそろ行こうかと渓をベビーキャリアに乗せようとするが、遊び足りないのか嫌がって泣く。皆があやしてくれて恐縮する。それでも、もう半年以上もほとんど週に一度、数時間ものあいだここで揺られている慣れた場所だから、背負ってしばらくするとたいてい泣きやんでしまう。人生とはこういうものだと諦めているに違いない。

梵天尾根を少し下ったところから出発点に戻ることのできる径があるとガイドブックで調べてあった。なればこそ難所を終えてあとは下るのみと軽い気持ちでいたのである。しかしであった。その下り口には地元の警察の手で書かれた看板があった。それにいわく「この下山道は分かりにくい部分があり、これまでに何人も遭難騒ぎを引き起こしている。よって通行禁止とする。落合橋へは八丁峠経由で云々」。馬鹿を言ってはいけない。これからまたあの鋸刃を戻れというのか。

少したってやってきた例の五人連れもそれを見て路頭に迷っている。五人連れは失礼ながらそう山慣れている風でもなかった。疲れた足で、下りの方が難しいのに下りの多い岩場を八丁峠まで戻るのはいかにも危ない。渓を背負った僕とて同じこと。当然こんな看板は無視する。

「大丈夫。下れますよ」と請け合った僕が行きがかり上先導することになった。赤ん坊連れの夫婦と中高年の男二人女三人、計八人の即席パーティーが出来上がった。

結論から言えば、少々お年を召した人もいたので休み休みではあったものの、迷うこともなく僕たちは出発点に戻ることができた。径も少なくとも僕の基準では分かりにくいところなどなかった。だいたい数年前のガイドブックに書かれていた径がそう簡単に神隠しにあったように消え去ることなど有り得ない。

この径は、たびたび御登場願う原全教さんの『奥秩父』にある八丁峠への横手径の名残に違いなく、それはそもそも剣ヶ峰から八丁峠に至る八丁尾根の険路を避けるための径なのだから、警察の言うことははなはだナンセンスと言わねばならない。

同じく原さんが昭和三十四年に出した『奥秩父研究』(朋文堂)には、この径は「いまは恐らく廃絶したことだろう」と書かれている。それが奇跡的に残っていたのだから通行止どころか歴史的な径として整備しなければならないほどである。

整備しろというと、すぐに擬木の階段や手摺りを造りたがるが、そんなものは一切不要。沢に迷いこんだ人がいたなら、その場所をピックアップして質素で丈夫で的確な道標を立てればいいのである。さらに言えば、道路に降り立った場所には鎖がしてあって、下り口にあったのと同様の看板があったが、ここから登る人がどれだけいるというのか。僕たちのように、そこから少し上の駐車場に車を置いて八丁峠へ先に登り、剣ヶ峰経由で一周するのがほとんどのパターンではないだろうか。ということは八丁峠の登り口にこそ看板を掛けておかねばなるまい。そうでなければ意味がない。もっとも、つまらぬところで迷ってしまう登山者にも問題はあって、そんな人に限ってガイドブックに文句をつけたりする。ガイドブックからは、そんな山があるんだというとっかかりを得るくらいにして、あとは地図を見て自分で研究したほうが面白い。

両神山一帯には私有地が多いと聞いたことがある。ここもそうなのだろうか。そのせいで、いらぬ遭難騒ぎは迷惑だということか。ともあれ無事で何よりだったが、こんなに岩場の登降の多いコースは赤ん坊背負って行くべきではないなと少し反省した。

駐車場でゆっくりしている秩父市在住だという五人連れと別れ、僕たちはひと足早くもと来た道を戻った。

中津峡の紅葉は秋の午後の斜光に照り映え、朝よりさらに輝いて見えた。ところどころに車を止めて撮影に興じている人も多かった。いったん大滝村の中心部まで下って村営の温泉で汗を流すことにした。道の駅の中にあるせいかけっこう人が多い。

さっぱりした後、再び山道を登って雁坂トンネルに入るころにはすでに薄暮だった。トンネルを抜けて甲州の見慣れた風景に迎えられると、なんだかほっとするような気がした。

(帰りに寄った本屋で、僕が剣ヶ峰から落合橋に降りる径を知った、山と渓谷社の『山小屋の主人がガイドする・奥秩父を歩く』の改訂版があったので立ち読みしてみたら、このコースの書かれてあったぺージはきれいさっぱり削除されていた。やんぬるかな。)

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