大峠と観音峠 |
昭和初期、朋文堂から出された原全教の『奥秩父 正・続』は、この山域を知ろうとするときに欠かせない本で、続篇の巻頭に尾崎喜八が書くように「奥秩父全書」というべき大冊である。 調べ上げられた山や沢の名前は膨大かつ精緻をきわめ、それらが過去の文献のみならず、多くを現地で直接採取されたのだろうことは、各巻に挙げられたおびただしい山村の人々の名前を見れば知れる。 山には山の暮らしがあった。すなわち、山中の地名がまだ生きて使われていた。しかし、○○で炭を焼いているから、○○に仕掛けを見にいくからと告げて山仕事に出る者がいなくなれば地名は無用である。はたしてそうなった。今、これら用済みになった地名のごく一部をかろうじて生き長らえさせているのは登山者や釣り人の便宜でしかない。 一方、登山という遊びを生み出した移動手段の発達は山峡辺地に及び、山麓歩きを失わせた。山村への滞在を不要にした。頂上さえ踏めばよしという登山者を増やした。一日一山しか登れなかったのが二山登れるようになった。一山なら地名を調べる余裕があっても二山ならない。よしんば知りたくともすでに知る人は山にいない。 『奥秩父 正・続』は、わずかに残った詮索好きにはますます貴重だが、新しいことを旨とする山の案内書の性格を半ば持って生まれたことが本の寿命にとっては不利だった。山人からの地名採集の経過に重きをおいて、それを詳細にとどめた本だったなら、版を重ねてもっと生き延びたのではないかと思う。残念ながら現在では入手が難しいし、奥秩父を歩く人でも、原全教の名前すら知らぬ人がおそらく大半だろう。 「文政年間江草村の岩ノ下の萬屋と云ふ造り酒屋では、大峠まで一丁置きに、石の観世音を建立して祖先の菩提を弔ひ、これを道標に兼ね、御嶽参詣の衆への便宜を計つたのである。それから大峠を観音峠と云ふようになつたので、地図のは本当ではないさうだ」 続篇の一項「小森川と平見城の山水」にある一節である。 現在の山梨県北杜市須玉町江草地内、岩下という小森川下流の集落から大峠(本来の観音峠)に通じる径は、御嶽(金峰山)の里宮金桜神社への参詣路でもあった。道しるべとして石の観音様が点々と置かれていたというのである。 原全教の使ったものよりおそらく古い大正初期の地形図を調べても、すでに今と同じ位置に観音峠はあり、大峠の名前もなければ径もない。では大峠とはどこか。 手がかりは『奥秩父続篇』にある原の文章と略図しかない。それによると、今の観音峠から西に、現在電波塔のある突起を越した次の鞍部が大峠である。ここが本来の観音峠だったというのである。 両方の峠はごく近接し、略図では峠の両側で径が再び合流している。おそらく旧来の大峠の径に地形上の難点があり、それを迂回して新しく開いた峠に大峠の別称であった観音峠の名を使うようになったのではないかと私は想像する。 数年前、やはりこの本に名前を教えてもらった、金ヶ岳の北に砲弾型に鋭く盛り上がるマナリ岩という山に登ったとき、岩下の集落はずれの藪径に、首のない苔むした観音像を二体見た。帰って前述の地形図を調べると、観音峠へ通じる破線がちょうどそこを通っている。参詣路にちがいない。 あの先にどれほど径形が残っているのだろうか、探ってみたいと思いながら果たせずにいたのを、つい先日腰を上げた。 今冬のいつにない寡雪は金ヶ岳の北側の斜面に通じる参詣路を探るには都合がいい。新旧の地形図を照らし合わせながら、深い落葉になかば埋もれた径形を追った。 原全教の歩いたころからすでに林道建設が始まっていた小森川流域は、今では縦横に林道が通じ、参詣路はそれに分断されたり重なったりする。かすかな踏跡に惑い、行きつ戻りつし、倒れた観音様を台座に戻したりもした。くだくだしい経過は省略するが、径はかすかながらも峠へ向かって続いていた。 大峠へと突き上げる穴小屋沢の源頭近くの大岩に、私の背丈ほどもある石仏がうっすらと雪をまとって座っているのを見たときには、日頃不信心な私も思わず手を合わせてしまった。今、いったい一年に何人がこの石仏にまみえるだろうか。 現在、観音峠から江草へ、金ヶ岳の北を巻いて林道が延長中で、それに突き当たったところで径は途切れた。そのまま強引に金ヶ岳への登山道のある稜線まで藪をこいで、少し下ったところが大峠だった。 「松林の中に一基の石の地蔵尊が、侘しく置かれている寂しい峠である」 原全教が書くとおりの場所だが、両側に下っていたはずの径はあとかたもない。 さらに稜線を東に進み、観音峠から現在の地形図にもある破線どおりに下ってみたが、踏跡らしきものはなかった。 この日数えた石仏は十一体、すべてが大峠への径筋にあった。大峠が本来の観音峠なのは間違いないようだ。 およそ二百年前、文化文政の御嶽信仰全盛期には参拝客が引きも切らなかった峠路だという。それを原全教が昔を偲ぶよすがもないと書いたのが七十年前。今ではその原全教を偲ぶ人もまれである。 |