御嶽山(七月十四日)
高校時代、昼休みには大抵図書室にいた。もちろん授業に関係ある本など読みはしない。試験の前になるとむしょうに関係のない本を読みたくなることがよくある。年中そんな状態が続いていたのである。家で読
む本、通学のバスで読む本、学校で読む本、とたいてい三冊同時に読み進めていた。最近知ったところでは、小林秀雄も高校時代同じようなことをしていたらしい。読んだ本が違うのか、頭の出来が違うのか、おそ
らくその両方だろうが、つまり本を読んだからといって馬鹿が賢くなるわけではないらしい。
おもに読むのは山や自然や哲学関係の本で、金がないのでもっぱら図書室に頼っていたわけだった。相当な量の本を読んだというのに、今となっては本の題名も内容もまるで覚えていないが、それでいいのかも知
れぬ。覚えているようでは、とっくの昔に「人生不可解ナリ」などと捨て台詞を残して河口湖にでも入水して果てているにちがいない。
図書室に行くのは本ばかりでなく、もうひとつの楽しみがあった。最上階にあった図書室の窓からは、晩秋から初春にかけての大気の澄んだ晴れた日には必ず雪白き御嶽山が望めたからであった。
見晴らしがいいといっても特徴のないなだらかな丘や低い山が続くばかりの三河地方の風景で、およそ山岳展望と言うほどのものではない。その中では少しは目立つ猿投山の向こうに真っ白い山のようなものを認
めた時には、はじめ雲だと思った。
だが見れば見るほどそれは山に見える。雪の被った高山など見えるはずはないという先入観があったものだから、地図で調べてそれが御嶽山らしいと知った時は驚いた。その形が、あの富士山の五合目から上を輪
切りにして取っ払らったようなよく写真で見かける姿ではなく、三角形の鋭峰のように見えたのも御嶽山だとピンとこなかった理由だった。
晩秋や冬の日には、今日は御嶽山が見えるかなあ、と学校に通うようになった。それに飽き足らず、晩秋の一日、同じく山好きの級友と二人で中央線に乗って御嶽山を近くに眺めに行った。
木曽福島からバスで地蔵峠を越えて開田村に入った。二十年以上も前のことで、もう現地での記憶は模糊としている。その時撮った何葉かの写真に肝心の御嶽山がないので、顔を見せてはくれなかったのだろう。
西日本の人間には見慣れない落葉松が珍しかったのか、葉を落とし切って針の山のようになった落葉松の山の写真が残っている。
キリリと冷え込む秋の高原の雰囲気は初めて経験するものだった。都会人の浅はかさで、バスなどいつでもあると思って遊んで夕方バス停に戻ると、もう終バスは出たあとだった。通りかかった車をヒッチハイク
して木曽福島の駅まで送ってもらったのも懐かしい記憶だ。
渓を背負ってこれまで登った山は、そのほとんどが初めての山ではなかった。たまには全く経験のない新しい山に登りたいと思ったが、日帰りで行ける範囲にはもう夏の暑い時期にこそ登るような高山は山梨県に
は残っていなかった。長野県に範囲を拡げればまだまだ候補はありそうだったが、往復に時間がかかる。だから車が相当高いところまで運んでくれるような山でなければならない。そんな時思い出したのが御嶽山
だった。
山梨県に住むようになって、御嶽山は遠い山となってしまった。八ヶ岳や南アルプスからその独立峰を望むことはあったが、日帰りで行けるとは思っていなかったので、どんな登山口があってどんなコースがある
のかなど調べてみることもなかった。それでも宗教登山の歴史の長い御嶽山も富士山同様に相当な高さまで自動車道が達しているに違いないと思って調べてみると、果たして標高二千二百メートルまで車で行けるの
だった。これならアプローチに時間がかかるとしても標高差八百メートルは二時間位で登れるだろうし、早朝出発すれば日帰り可能に思えた。車に乗っている時間が長いのもドライブを楽しみのひとつと考えれば済
む話だ。
昔の汽車でのアプローチも現代の自動車でのアプローチも山への距離を短縮する手段としては同じこと。ただし、車のほうがより個人的でわがままを聞いてくれる分危険を伴う。何かを得るには必ず何かを失うこ
とになっているのである。交通機関の発達と近代登山の誕生は切り離しては考えられない。しかし、だんだん便利になることが自然の成り行きだとはいえ、それも行き過ぎるととんでもない隘路となるやも知れぬ。
山梨から御嶽山を日帰りしようなどという企てはどうか。登山という行為は生活の余裕の産物だろうに、その余裕を自らなくすような計画は潤いがないといわれてもしかたがない。それでも僕は出かける。恋人に逢
いにいくのに百里の道を遠しと思う人があろうか。それと同じだ。
もっと早く出発するつもりが少し寝坊してしまい、御坂峠を出たのは五時だった。子供の時、どこかへ遊びに連れていってもらう朝のただ嬉しく楽しいだけといった感情はそこにない。山へ出かける朝は何となく
起きるのが億劫なことがある。未知の山に登ろうとしている時はなおさらだ。それでも、もう僕は頂上に立った時の爽快を知っている。山から帰り着いた時の満足を知っている。それがせっかくの休日に僕を早く起
こし山へと駆り立てる。
塩尻インターチェンジで高速道路を降り、国道一九号を南下する。木曽福島の市街地はバイパスで通過、木曽川を渡って王滝川に沿った道に入る。王滝村の中心部からぐんぐん高度を上げる道の脇には数え切れな
いほどの石碑が立っており、不気味な感じすらする。これは霊人碑といい、御嶽講の信者の霊が死後山に還ると信じられているところから建てられた墓標であるという。人々の情念のなんと凄まじいことか。
冬には雪の下になるのだろう、リフトのかかった草原の中の道を羊腸に登ると三笠山を回り込んで田の原の大駐車場に着いた。
まだ九時前。途中の朝食の時間を除けば三時間余りでここまでやって来たことになる。思っていたより早く着いてしまった。高い金を出して車を買って、高速道路でまた金を払って、当然ガソリンにも金を払って、結局は時間を買っていることになる。その金を得る為には仕事をしなければならない。それはとりもなおさず自分の時間を売ることだから、結局は時間同士を物々交換していることになって何が何だかよくわからない。
御嶽山はあいにく頂上部分だけを雲に隠していた。この大駐車場が満杯になったらさぞ壮観だろうと想像しながら、閑散としたその中を渓を背負って歩き始めた。
大きな石鳥居をくぐって、一直線に延びる坦坦とした大道を登って行く。平坦に見えるが意外に傾斜がある。若者二人が追い抜いていった。あのペースでは早晩休むことになるだろうと思っていたら、大江権現を
過ぎて、やっと山径らしくなってきたところで案の定休んでいた。ゆっくり休まず歩くほうが結局は早い。
石碑や銅像などがいたるところにあって、これはこの山を巨大な神社そのものとすれば納得もいく。境内を歩いていると思えばいいわけだ。それゆえ径の整備も行き届いている。
森林限界を越えてからはまるで富士山を登っているような感じだった。富士山より標高が低いせいか斜面の緑は濃い。すぐそこに見えている場所になかなか辿り着けないのは富士山と同じだ。
濃霧というほどではないものの、常に雲が山にまとわりついていて下界もその合間に少し見える程度だが、まず雨の心配はなさそうだ。そんな登山道をさすがに御嶽山ともなると多くの人が登っていて、それをど
んどん追い越していった。僕たちはあまり人に追い抜かれることはない。急いで登っているわけではないのだが、常に一定のペースを保っているからかも知れない。渓を背負っているのを見て驚いたり激励してくれたりする。
ほんの手の届きそうな距離に見えるのになかなか近づいてこない小屋にやっと本当に手が届くと、それが王滝頂上小屋で、その脇を通り抜けると王滝頂上だった。これまでと一転して頭上に青空が拡がった。雲の
上に出たわけだ。不毛の砂礫地の向こうに初めて最高峰剣ヶ峰が姿を見せ、さほど遠くないところからもくもくと白い噴煙が立ち昇り、噴気の轟音が耳につく。
王滝頂上すなわち社殿であった。なんとも立派な神社が玉垣をめぐらせていた。神聖な山頂に神聖なものを建てられたのでは文句がつけられないが、ここに何もなければと想像したりもした。不遜な気持ちを抱きながらもちゃっかり親子三人拝礼する。
ともあれ最高峰剣ヶ峰へ。一木一草とてない八丁ダルミには硫黄臭が漂い、噴気口からは腹に響く轟音とともに盛んに蒸気が吹き上げ、奇妙な形の青銅製のモニュメントや像は火山ガスの影響か黒ずんで不気味に
佇む。青い空の下だからいいようなものの、重く雲の垂れ込めた日でもあったらさぞや鬼鬼迫る光景だろう。いや、それもここでは神神しい光景というべきか。
二軒の頂上直下の山小屋の間をすり抜けて、石の鳥居をくぐり、まだ新しい石段を登って頂上の神社の前に立った。山頂というよりはまさしく神社の境内である。社務所の中からはテレビだかラジオだかの昼の番組の音が漏れ出ていて、周りの光景さえなければどこかの街なかの神社の昼下がりそのものである。
しかし見下ろす風景は巨大だ。水のない一ノ池の広大さはどうだろう。まさしく自然の作り出した大競技場だ。火口壁の傾斜もまるで観客席のように見える。一段下には翡翠色の二ノ池が控えている。それより先は雲で見えない。地図で見ると賽の河原や四ノ池も広い平地を形成しているらしい。頂上一帯の複雑さはもちろんのこと、広大さも富士山をはるかに凌ぐようだ。
いつも眺めているだけだった御嶽山から、逆に馴染みの山々を眺めるのを楽しみにしていたが、残念ながらそれはならなかった。登山口を変えてまた登ればいい。一日だけで味わいきれる山ではない。
頂上でのんびりしていたら、登山口近くで抜きつ抜かれつした若者二人が登って来た。剣ヶ峰で出会った人はこの二人だけだった。追い抜いてきた多くの人たちは王滝頂上で事足れりと引き返したのだろう。富士山でも吉田口頂上で満足して敢えて剣ヶ峰へ登ろうとしない人が多い。それと同じかも知れない。少しでも高い場所があれば、行ってみなければ気が済まないのは煙と何とやらと古来言う。然り。
煙と同じ資質を持つ親子は頂上を離れがたくさらにのんびりするうち若者二人は下ってしまった。僕たちも重い腰を上げる。
王滝頂上から下を眺めると青い体操着姿の一団が登って来るのが見えた。九合目付近ですれ違うことになったその中学生たちが渓を発見して騒ぎたてる。ひょうきんなのが必ずいるもので、駆け寄ってきて「頑張
ってください」と握手してくる。その中学生に「今夜は頂上泊まりとは羨ましいね」と言うと「そんなのちっともいいことじゃありませんよ」と心から嫌そうな顔をして答えた。正直な奴である。否応なしに連れて
こられる登山など楽しくはない。
雲の下となって田の原の駐車場と背後の三笠山が見えてきた。奈良の三笠山になぞった名前だろう、その通りの衣笠形の山である。振り返る御嶽山は、逆に雲の中に隠れて姿をみせてはくれなかった。
田の原を出て麓へ走る道の脇にも色々な観光施設が目につく。地図を見てもスキー場や別荘地やそれに付随する自動車道路がこの山を四方から蚕食していることがよくわかる。それは富士山麓や八ヶ岳山麓と同じく広大な裾野を持つ火山特有の現象かもしれない。
それでもなお御嶽山が秘峰めいた感じを与えるのは、富士山のように広い裾野を持ちながら、その裾野に達するのでさえ前山を越えなければ到達できない奥深い立地条件だろう。どこからでも望めるあっけらかんとした富士山と違って、近付いても容易にはその姿を見せてはくれない点が、今だに聖域としての地位を保ち、連綿として御嶽講の信者の往来が絶えない所以だと思えた。
登ってきた山頂が麓から見える時はそこで車を止めて「ああ、さっきはあそこにいたんだなあ」としみじみ眺めることがあるが、御嶽山の場合は、晴れてはいても山麓の奥深い森に阻まれてそれはならなかっただろう。むしろ遠ざかるほどその姿を見せてくれるようになるのがこの山だ。例えば遠く名古屋から。
もう遥か昔、名古屋の高校生だった僕が眺めていた御嶽山に、その頃この同じ地球にいることすら知らなかった妻と、そしてその間に生まれた渓とともに立った。なんと不思議でおもしろいことだろう。普段忘れている、あたりまえのようでいてよくよく考えれば不思議なめぐりあわせをこの山が想い出させてくれた。
そんな御嶽山は、多くの人々の神様でもあるようにやっぱり僕たちの神様でもあるに違いない。
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