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          高登谷山・女山(12月1日)

学生時代、友人の車に乗って大弛峠を峰越林道で越えたのが、車でとはいうものの、僕の初めての奥秩父入りで、信濃川上村へ足を踏み入れたのもその時が最初だった。山とは疎遠な頃だったから、なんとも山奥まで車で行けるものだなあと感心したくらいで、ことさらに何が印象に残ったということもなかったが、それでも川端下から見た屋根岩の奇観には目を奪われた。瑞牆山のことは話に聞いていたから、なるほど、あれがその瑞牆山というやつに違いないと思ったものだ。今思えば、見当違いもはなはだしいとも言えるし、当らずとも遠からじという気もする。

社会人になってから、まだ結婚前だった妻と車で大弛峠に行き、前国師へ散歩ついでに登ってしまったことが僕の山登り再開のきっかけとなった。その時も川上村に抜けて帰った。そんな意味でも思い出深い。気に入ってしまう土地というのはあるもので、僕の場合は、そこにどんな山があるか、どんな山が見えるのかということがその条件で、しかも夏涼しく、カラッと乾いた空気ならなおいい。その点ではこの千曲川源流の村は全く申し分ない。西に八ヶ岳を望み、重厚な奥秩父の山並みに南と東を区切られ、北に天狗岳、男山の奇峰を連ねる。市街地で標高千百メートルを越える高原の気候は乾いている。

この村の川端下に作家の田渕義雄さんが住み、作品を発表している。偶然本屋で手に取ったその本を、ああ、あそこに住んでいる人なのかと興味をそそられ、読んで感銘を受けた。もともと気に入っていた土地にそんな人がいて、さらに気に入ってしまった。

田渕さんのように、日々の暮らしの中で実践したことや経験したことだけを題材にして文章を綴ることは大変なことだろうと思う。実際にあったことを書くのは本当に厄介だ。今までこの山行記を書き続けて、僕はつくづくそう思った。まあ、こっちの場合は非才のせいだけれども。

田舎暮らしをしながらも、田渕さんには、都会の良さを認める、もしくは都会があってこその田舎だという視点がある。多くの脱都会田舎暮らしの人間にはそれが欠ける。現実の問題として、観光をはじめ、都会と関わりを持たない田舎暮らしなど、この国ではほとんど有り得ないのである。そして、その逆も然り。都会と田舎は相対的な存在である。どちらかひとつということはない。

都会に憧れる田舎の若者がいて、田舎暮らしをしたがる、都会に疲れた中高年がいる。田舎で描いていた夢や希望がそう簡単に都会で実現するはずもなく、都会人が田舎に抱くイメージなど、田舎の人はみな純朴な善人に違いないという、あまりにも自分勝手な甘い認識にもたれかかった幻想にすぎないことが多い。隣の芝は青いだけのことである。

都会で生まれ育った僕には都会暮らしの良さもわかる。にもかかわらずこんな山奥に住み、これからも田舎で暮らそうと思っているのは、自分にとってのメリットが田舎暮らしの方にあると思うからで、それが感じられなくなればすぐにでも都会へ引っ越すだろう。だいたい、総合的にみて都会が暮らし良いからこれだけ人が集まっているのである。

それでも、これからコンピューターネットワークが発達して、田舎でも都会にいるのと全く変わらない仕事と収入があれば、皆、田舎に住むだろうか。そんな単純なものではないだろう。人は本質的に都会を作って、そこに住もうとするに存在に違いない。田舎なんかまっぴらだという人が多いにきまっている。また、そういう人が多くなければ、我々田舎暮らし派は困ってしまう。

ともあれ、自分の気に入った土地に自分の信ずる方法で生活をする田渕さんを、羨望の混じった尊敬の念を持って、その文章を通じて僕は眺めているというわけだ。

いつぞや、川端下集落の東に連なる長峰(ながおと読むという。古い地図には長尾と書かれていたのを見たことがある)に登った時、その読みの由来になったのだろう北西に延びる長い尾根の先に、写真で見た田渕さんの家の大きな赤い屋根を双眼鏡で発見して、嬉しくなってしばらく眺めていたことがある。僕のようなミーハーがいるから作家はうかうか変な格好で散歩もできないな。

川上村を網羅する、二万五千分の一地形図『御所平』と『居倉』は、そんなわけでよく開く地図で、いろんな山にも登ったが、『御所平』にある高登谷山と女山は、気になりながらも登り残していた山だった。両方とも頂上に至る登山道の記入はないが、女山のほうには途中まで破線が入っている。ほとんど文献に登場しない山だが、古くは、尾崎喜八さんの『山の絵本』の中の「御所平と信州峠」で、その姿が描かれている。

登山道については、高登谷山は、千曲川から信州峠へ向かう途中、南東に拡がった扇状地を占める別荘地から登るというガイド記事を、立ち読みした山岳雑誌で見たことがあった。いっぽう女山は、石井光造さんの本で少し触れられているのを読んだことがあった。また、横山厚夫さんが『一日の山・中央線私の山旅』で、両山を一日で登ったことを書かれている。いずれにせよ、取りつきから頂上まで標高差四百メートル足らずで、しかも四方八方に長い尾根を延ばした穏やかな表情の山である。何とかなるだろうと、まず高登谷山に登って、首尾良くいけば、横山さんの真似をして女山もいっぺんに登ってやろうと出発したのは、その日から十二月という寒い朝だった。


もうこの季節、昼間ならいざ知らず、早朝ともなれば路面凍結の恐れがある。冬タイヤを履かせてある車で行くのが無難である。僕の車は軽のワゴン車だけが冬タイヤを履いている。高速道路を使っての遠出はつらいが、仕方ない。当然クリオも行くことになる。この車は犬小屋を兼ねている。犬小屋だけが行ってしまうわけにはいかない。

野辺山から国道と分かれて川上村へと続く道には、案の定、前に降った雪が日陰に凍り付いていて何度か肝を冷やした。信州峠へ向かう高原野菜畑の中を一直線に延びる道に入ると、右に女山、左に高登谷山が見える。両方とも相当高い山であるにもかかわらず、すでにこっちの標高が高いせいでちょっとした丘陵くらいにしか見えない。地図で見るとおりの長く穏やかな尾根がいくつもあるので、どこから取り付いても何とかなりそうだが、ちゃんとした径があるのなら、それを登るにしくはない。まずは高登谷山への登山口があるという別荘地へと入っていった。

山の行き帰りに別荘地を通ることも多い。その度に世の中にはお金持ちがいるものだなあと感心する。自宅すらない身には想像する資格はないのかもしれないが、別荘を建てる財力がもし僕にあっても、僕は建てないだろう。建てたらそこへ行かなければならない。本宅以外に縛られる家があるなんて、そんな重圧に耐えるのはまっぴらである。だいたい僕が別荘でゆっくり優雅に心穏やかに過ごすことのできる人間でないことは自分が一番良く知っている。えっ、ごまめの歯ぎしりだって。悪かったね。でも、建ててはみたものの数年で飽きて、放ったらかしの人も案外多いのではないか。半年もそこに滞在するのならいざしらず、せいぜい、合わせて年にひと月程度しか利用できないのが日本人の現状ではなかろうか。行く度に草刈りと家の補修をする羽目になるのが関の山である。

高いところを目指して車をゆっくり走らせていたら、苦もなく登山口の標識が目に入った。道の脇に車を止め準備をしていると、別荘地の下のほうから歩いてきた男性がひとり登山道に入っていった。荷物を持たないので別荘の住民かもしれない。渓を担いでそのあとを追う。その前に放したクリオの行方はクリオのみぞ知る。

どうやら、高登谷山三角点から南西に延びる小尾根に径はつけられているようだった。短い尾根だから勾配はきついが勝負は早い。途中展望が開けて、居並ぶ南アルプスの群雄をカメラに収めながら一時間足らずでうっすらと雪に覆われた小広い山頂に飛び出した。担いで歩き出したとたんに寝てしまった渓はまだ寝たままである。起こさないようにそっと地面に降ろす。クリオはどこからともなく姿を現し、我々の休憩の様子を見て自分も休憩の態勢になる。クリオはすでに我々の何倍もの距離を歩いているだろう。先行した人の姿はなかった。どうやら一周して別荘地に帰る方法があるらしい。

双耳峰であるこの山の本来のピークは、南東にある、ここより二十メートル近く高い峰だろうが、ご多分にもれず、三角点のあるここに山頂標示が立っている。今日のところは僕たちもわざわざそちらへ行ってみることはしない。いずれ、そのピークを通って山梨県境尾根に達し、信州峠まで歩くのも面白そうだ。

借りてきたビデオでパノラマ撮影をする。南から西にかけて展望が大きい。横尾山から飯盛山へ連なる尾根の向こうに、笠無から南に続く須玉の山々をはさみ、壁のように立ちはだかる南アルプス。北岳と仙丈ヶ岳がひときわ白い。入笠山の上には木曽のアルプスが雪の頂稜を並べている。そして西には八ヶ岳。無残に木々の刈られたスキー場の傷が痛々しい。

まだ十時前である。さすがにこれで終わりというわけにはいかない。すぐ目の前に野菜畑をはさんで女山がその名のごとく柔らかな姿態を横たえている。この据え膳食わでおくものか。

さあ下山だという段になって、やっと渓はお目覚めだ。一度もベビーキャリアから降りないまま、また担がれてしまった。一直線の径は下りも早い。あっという間に車まで戻った。荷物を放り込んですぐさま女山に向かって出発。こんなハシゴ登山は初めてである。


七森沢に沿った道は、車道とはいうものの路面は荒れ、深入りしないほうが賢明なようだ。いさぎよく歩く。荷台に犬の檻を積んだ車が止まっていた。ハンターらしい。誤射されてはたまらないのでクリオをつないでいく。

沢沿いの道から分かれる破線の径はすぐにわかった。林業作業道の名残らしく、車の通れる幅がある。遠くで銃声が聞こえた。もう大丈夫かとクリオを放す。

地図の破線は南北に延びる尾根を北上し、西に折れたところで途切れる。その西に折れる地点で径は二手に分かれた。尾根に沿ってそのまま北へ延びる径は地図にはない。ここは地図にある破線を辿って、女山の南端から南東に延びる尾根に乗る算段とした。

しばらく進んだところで右の山腹に赤テープを見つけた。舌打ちをしながらも、そこから尾根へ登りあがることにした。尾根に乗ってしまえば、方角定めてあとはひたすら登るのみである。藪は大したことはなかったが、なかなかの急登でひと汗かかされた。頂上の南端らしきところへ出て、あとは緩やかに北上すると三角点に出迎えられた。高登谷山の頂上でも見かけたが、ここにも西側に朽ちた有刺鉄線の牧柵があった。

頂上の木には山名標が二つ打ち付けてあって、そのひとつは、白地の板に赤いペンキで女山と乱れた字で書かれていて不気味である。こんな悪趣味な山名標はひっぺがしてやろうかと思ったが、たたりがありそうなのでやめておいた。これが違う山の名前だとそうは思わないだろうに、なぜか女山だと怖い。いや、べつに後ろめたいことがあるわけではありませんよ。

八ヶ岳の方面だけが少し開けているのみで、他の方面は木の間越しに見える程度だが、三角点のまわりは小広くてのんびりしたところだ。ちょうどお昼時。いつものようにパンを飲み物で流し込むだけのごくごく質素な昼食である。

腹がいっぱいになると、もう渓はじっとしていられない。クリオの頭をぺたぺた叩くので、クリオは嫌がって遠くへ行ってしまった。半月ほど前に、初めてつかまらずに歩くことができたが、あくまで平らな場所でのこと、山の中ではまだ無理だ。手をつないで散歩をする。這えば立て、立てば歩めとは言うものの、そうなったらなったで、ただ寝ころがっているだけで自分では動けなかった、たった一年前が懐かしくもある。なんとも親というのは身勝手なものだ。おそらくこういう繰り返しがこれからもずっと続くのだろう。

女山にやってきた多分史上最年少の女が、それを生んだ女に手を引かれて頂上をよちよち歩く姿を、その下僕たる男がビデオ撮影をしているうちに一時間くらいがすぐにたってしまった。

帰りは三角点から南東に延びる尾根を下った。北東や北西に長く延びる尾根にも踏跡があるようだった。

穏やかな傾斜の広い尾根の、葉を落としきった明るい林は径もないが藪もない。そこを足まかせに下っていく快さ。これぞ愉快。そういえば、最近は不愉快という言葉は聞くが、愉快とは言わないな。この世の愉快は多く山の中にある。

一六五○メートル峰との鞍部から南に方向を変えて下っていくと、やがて立派な径があらわれて、ほどなく往路の分岐点に出た。わが目算あやまたず。さらに愉快になって下る、半ば茅に占領された廃林道からは、西日に照らされた瑞牆山の頂上に五丈石が乗っかって見えた。

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