白山書房『山の本』37号に書いたものです。本の著者としてしか知らなかった方々と山にご一緒するようになって、不思議な縁を感じます。山の世界って、何時の間にかつながってくるものなのですね。
女山 横山厚夫さんの本で名を知った女山に初めて登ったのはもう3年近く |
前の初冬。1才になってまもない娘を背負って藪を分け、うっすらと白 |
くなった八ヶ岳を冬枯れの枝越しに望む頂上に立った。その時、後に横 |
山さん本人とこの頂上に立つことなど誰が想像できよう。 |
八ヶ岳南麓に開業したばかりの僕のロッジに、手紙のやりとりだけで |
ほとんど面識はないに等しかった横山さんが夫妻で早速おいで下さった |
のは去年の9月。そのひと月後、今度は大森久雄、岩瀬皓祐、松家晋の |
3氏とともに行くから、どこか山を案内せよというお達しである。僕が |
その山の文章にお世話になっている人ばかりではないか。こちらの貧弱 |
な山の知識で一体どこを案内せよというのか。 |
だが、一行と落ち合うのはもう昼近い。それから登って、何とか昼飯 |
時には頂上に達せられ、ロッジにほど近く、何よりまず人の訪れのない |
山となれば選択肢は狭まる。さて。 |
千曲川源流の村、信濃川上。高原野菜の畑を見下ろすたおやかな姿が |
女山である。標高1700米を越えるこの山でも少し錦繍には早いかとい |
う10月の初め、僕たち夫婦ともうすぐ3才になる娘は中央線穴山駅で一 |
行と合流、塩川ダムを経て信州峠を越え、50分足らずで女山の南を流 |
れる七森沢の入口に到着した。 |
入会の山が多い長野県でよく見る無断入山禁止の立て札がここにもあ |
る。頂上に立って快哉を叫びたいだけの人の入山は大目に見て欲しい。 |
地図上で沢沿いに続く実線は、4WDの車ならどうにか通れそうな道 |
だったが、出水で大きくえぐられ、歩くのにも苦労するところがある。 |
皆さん勝手気まま、隊列などありはしない。離合集散を繰り返しなが |
ら進む。もう何回となく一緒に山を歩いているうちにできあがったあう |
んの呼吸か。娘と歩く妻は遅れ気味である。 |
地図上で破線で示されている、七森沢から北に分かれる支流の左岸に |
沿う径の入口は、草深い時季には少しわかりにくいが、入ってしまえば |
車も通っただろう幅があり、あとはそれをたどるだけである。 |
まだ歩き足りなそうな娘も、この径に入って、行く手の草が彼女の背 |
丈を越すようになっては僕の背に負われるしかなかった。ま、2才にし |
てここまで歩ければ上出来だろう。 |
何回かの屈曲を繰り返したのち、北へ向かっていた破線が西へ曲がる |
地点から、地図にはないが、そのまま北上する作業道の名残とおぼしき |
径がある。これをたどって1650米峰との鞍部から尾根に取りつき、 |
頂上を目指す算段である。 |
皆さん、ただ山を歩くのを楽しんでおられる様子。地図など見ようと |
もしない。方向が怪しくなると僕に声がかかる。 |
「長沢さーん、こっちでいいのぉ」 |
月日がたって季節も変われば、僕だってあやふやだ。結局、藪をこい |
で登りついたのは、目指す鞍部よりずっと西の尾根上だった。すこぶる |
風通しのよい尾根だった記憶があったのが、葉が生い茂って暑苦しい。 |
これもまた前回とまるで印象の違う、ほとんど展望の隠された頂上に |
汗をかきかき全員到着。 |
この顔合わせでまたこの山に登ることになろうとは思わなかったな |
あ」と横山さん。それは僕とて同じこと、不思議な巡り合わせである。 |
三角点を囲んで昼飯となった。食べながら飲みながら、次から次に繰 |
り出される文字通りの四方山話を楽しく拝聴しているうち、あっという |
間に1時間がたった。 |
帰りは頂上の南の端から西へ山腹をずるずると滑り降りる。娘は母親 |
に支えられ、斜面をきゃっきゃっと笑いながら下ってくる。なんと妙な |
2才児だろうと皆さんちょっとあきれ気味である。結局、娘はこのまま |
最後まで歩き通してしまった。 |
山腹が尾根らしくなって、しばらく下ると、行きがけに別れてきた地 |
図の破線の径が右下に見えた。藪を分けてそこに降り立つと、わずかで |
往路の分岐点だった。 |
金峰山の五丈岩と瑞牆山の頂上が重なって見える径をぶらぶら下り、 |
七森沢の出合いで最後の大休止。山から下ってきた人はみないい顔をし |
ている。 |
少し地図が読めれば、短い時間でてっぺんに立て、しかもまず人の気 |
配のないこんな小粋な山があるのはうれしい。ようし読むぞと一念発起 |
して読み出す長編小説のような山もあれば、こんなショートショートの |
ような山もある。この山は北東と北西に興味深い長い尾根を延ばしてい |
るので、それを探れば気の利いた短編小説にもなるだろう。 |
その夜、僕のロッジに投宿した一行は、ひと山終えた昂揚と旅の解放 |
感も手伝ってか、山中にも増して談論風発、お迎えした僕たちは給仕も |
そこそこに同席してしまい、何とも楽しい夜を過ごさせてもらった。 |