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白山書房の『山の本』から頼まれて書いた書評ですが、没原稿となりました。公になる書評というものは、多少はほめるのが礼儀というものですから致し方ありますまい。ズバッと斬っていいのはすでにベストセラーになっている本を評するときで、それならさらに宣伝になるというわけです。せっかく書いたのに悔しいからここに載せておきます。



『自然に学ぶ』 岡田喜秋著 玉川大学出版会

「半世紀にわたって旅をしながら、 私は自然と風土について、人一倍関心をもってきた」と、あとがきにこの著者は書く。著者が自らいう「人一倍」の関心も、整理整頓されていなければ文章にはならない。

文章は論理である。たった一個の言葉の用い方で話の筋は通らなくなる。その結果、文章が曖昧になる。この本にはそういった破綻が多すぎて、何を言わんとしているのか結局わからない。むしろ、著者の博識を箇条書きにただ披瀝するにとどめておいたほうが良かった。なまじ解釈や思想を注入しようとするから話がややこしくなる。

実は私は十代の半ば頃、この著者の本を買って、何の疑念も抱かず読んだ記憶がある。念のためその本を引っ張り出して読み返してみた。なるほど、やはり今回この書評に取り上げた本と同じく、文章に論理が欠けるので、つっかえずには前へ進めない。若かった私は、文章の意味のない難解さ(字面の難しさだけでなく)を見抜けなかった。むしろ、難解さを文章の良さとしていた節さえある。愚かな過ちである。

しかしである。この著者に全集ができそうなくらい著作が多いのは、 読者の支持があったからだろう。不思議なことだ。今更私ごときが何を言っても空しいし、一笑に付されるのが落ちかも知れぬ。

文章ではなく、内容の吟味はと言うなかれ。いまだかつて内容のある悪文など存在しないのである。



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