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星の文学者

星の文学者として知られる野尻抱影のことを、太陽と月がようやく区別できるくらいの私が書くのは恐れ多いが、抱影の山について書いた文章は、星のそれと同様に香気に満ちたものであるにもかかわらず、顧みられることが少ないように思う。それでは惜しいと、たとえいくらかでもこの小文にて読者諸賢の耳目をひくことができればと思うのである。

 
私が抱影の山の文章をはじめてまとめて読んだのは『山・星・雲』(沖積舎)という平成2年出版の本であった。「山」が書名の最初にくるように、抱影の本としては珍しく山の話が主で、それも白峰三山にまつわる話が多い。
 
 
明治の末、旧制甲府中学に英語教師として赴任した抱影は、盆地の底から見た白峰の様子を逐一手紙にしたためて、同郷横浜の小島烏水に送った。創刊されて間もないころの日本山岳会の機関誌『山岳』で、烏水の文章に出てくるN君の手紙というのがそれである。

抱影自身の、北岳登山記をはじめとする文章も同じ頃同誌に発表され、近代登山黎明期の新鮮な山が驚きと感動をもって語られている。

 
抱影がもっとも山に執心していたのはこの甲府在住の5年間だったようで、その後はもっぱら星と日本人とのかかわりの研究に打ち込むことになる。

『山・星・雲』で各編の初出が詳らかにされていないのは不親切だが、『アルプ』に掲載されたものが何編か入っていることや、その内容から、『アルプ』創刊の昭和33年以降に書かれたものだろうと推測される。それなら、明治18年生れの抱影はすでに70歳を過ぎている。最も山を身近にしていた半世紀前の甲府時代の、白峰はもちろんのこと、街や人や風物をやわらかな洗練された筆致で回顧して間然するところがないが、何しろ驚かされたのはその絢爛たる比喩と修飾語、わけても色彩のそれだった。

 《白峯は紺紫、そこの空は淡い樺いろ。南の七面山あたりの空は遠火事のように夕焼けている。西の空に、紫がにじんで藍に変わるあたりは、江戸紫ともいいたい、目も覚めるような色調である。それが東になるほど深い藍になるが、東の山ぎわはまた、うっすり紫ばんでいる。富士から南の空では、水浅黄と樺の美しく溶けあっている。
 白峯の空の雲は、紫をふくむ灰汁いろだが、それもほのかである。紫がかった空に漂う雲は、透明な紫と樺いろのまじりで、高く昇るにつれ、その濃さが加わってくる、東寄りの雲は輪郭もぼやけて、それが西へ向く面は淡いばらいろ、蔭は淡いぶどう鼠である。(冬の日記から)》


これは甲府に住んでいたときの日記の抜粋だと抱影は書いているが、若くしてこの表現があったのなら、まさに才というほかない。

どの文章を読んでも実に豊富で細やかな色と詩的な比喩にあふれている。それは文章では表現しづらい、星という対象を書き続けた抱影の手練の技だろうし、文章のみで万物を描いて見せようという作家の気概でもあったろう。

「甘酢いろ」「とびいろ」「水浅黄」「灰汁いろ」「ぶどう鼠」「樺いろ」「江戸紫」「にびいろ」。

抱影が書いたころには誰もがすんなりと頭に浮かんだ色だろうか。今ではすでに絶えかかっているゆかしい色たちである。

色を表わす言葉が使われなくなることは、色がなくなるのも同然である。なぜなら私たちは言葉で物を思うからで、意外なようだが、語彙が貧しくなればおそらく絵画や音楽も貧しくなる。

人は人に関わるすべとして言葉を持ち、それを文字にとどめ、音をレコードにこめ、あげくには視界を写真に焼き付け、白黒よりカラー、静止画より動画、と際限なく物事を具体的にとどめ、伝える方法を生み出してきた。

言葉が文字になったとき、おそらく人の身振りや表情はかなり失われただろう。そして、文章を駆使して伝えていたものがいとも簡単に写真で伝えられると錯覚したとき、多くの想像力を失う準備がととのった。

文明は人間を労苦から解放しようとして、一方で肉体を退化させもした。心が肉体に宿るなら、どうしてひとりそれだけが豊かになることがあろうか。

先の文章の続きを引こう。

 
《富士を盟主とする山脈は沈んだ紺いろで、西の白峯連山に見るような紫はふくんでいない。富士の雪は、胸から上がほのかなばら色に輝き、紫黒色の山体も、輪郭がはっきりしていない。
 やがて暮れるにつれ、白峯の空の雲は黒ずんだばら色に染まり、中空から東の雲はしだいに色があせてくる。西空は紫を奪われて、夕暮れの水浅黄がその一帯にゆっくりと浸潤してくる。》


この、冬の甲府盆地の夕暮れをそっくりそのまま、いかに精緻な映像で見せられても抱影の文章から得る感銘には及ぶまい。映像から得られる感銘はそれを超えることはない。ところが、すぐれた文章はときとして本物や現実をも上回る。

野尻抱影、本名正英、昭和52年91歳で没。中学のころから自分のものとしていたオリオン座の片隅に、生前すでに墓を用意してあったという。さすがに選ぶ場所がちがう。いずれそちらへ出かけた折にでも墓参りするとしよう。

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