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                   西穂高岳(6月30日)                 

「穂高岳」という山の名は高校時代の僕にとって、他の山とは違う響きを持っていた。

目に入る文献や情報が北アルプス、しかも穂高岳周辺に片寄っていたことにも原因はあるだろう。三宅修さんの穂高の写真には繰り返し見入ったものだ。ガイドブックも隅々まで読んだ。『穂高』という名前の入った本の背表紙を見つけると手に取ってみないではいられなかった。

今考えれば実に青くさいことだが、そこにはめくるめく生があり、清潔な死があり、そこに登れば、さいなまされていた漠然としてつかみようのない飢餓感も消失するような気がした。

机上では、すでに島々から徳本峠を越えて上高地入りし、穂高に登るシュミレーションはできていた。しかし、それを親には言えず、ひとりで実行に移すだけの勇気もなかった。それでも、僕に青春の山というのがあるとすれば、その時代に登っていないというのに、それは穂高岳以外には考えられない。

穂高岳の姿をはじめて見たのは、大学一年の時、燕岳から蝶ヶ岳へ縦走した際だった。燕岳からはむしろ槍ヶ岳の印象が強く、その向こうに連なる穂高の山稜は遠く感じた。穂高の存在は、常念岳から蝶ヶ岳にかけて圧巻となったが、すでに見ていた景色が大きくなっていくにすぎず、突然目の前に現れた感激はなかった。最終日の上高地から振り返った時、初めての本格的な縦走に疲れた身体には、あれほどまでに憧れた穂高の姿も少し色褪せて見えた。

最初の穂高との邂逅は、島々谷を遡っての徳本峠からか、釜トンネルをくぐった上高地からであれば良かったと今にして思う。

穂高へ行けば、山に行けば、消失するはずだった僕の飢餓感は大学生になって、目先の自由が手に入った途端に雲散霧消し、なんとも浅薄なものだったと言わざるを得なかった。そして山からも遠ざかって、ついに学生の間に穂高に足跡を残すことはなかった。でも、山から興味が薄れても、そのまま山を続けていたかつての仲間が穂高に登った話を聞くと、他の山では全く感じなかった、嫉妬にも等しい羨望を禁じえなかった。


大学を卒業して何年かたった四月の末、ワンダーフォーゲル部時代の女の上級生Dさんが、僕の同級生だった男と、当時河口湖畔に住んでいた僕を訪れてくれたことがあった。三ツ峠に岩登りをしにきて、その途上、近くに住んでいるからと久々に逢いに来てくれたわけだった。
Dさんが卒業して以来逢っていなかったのだから、五年ぶりくらいではなかったろうか。一年半くらいしか在籍しなかったクラブだったのに、そうやって思い出して訪ねてくれる。山仲間というのはありがたいものだと思った。

僕の家に泊まってもらって、その夜は学生時代の思い出を肴に、愉快に飲んだものだった。この連休の後半はどうするのかと尋ねると、穂高へ行くという。三ツ峠はその足馴らしというわけだった。山から興味が失せていた頃だったけれども、やはり穂高と聞くと、ああ、いいだろうなあ、と雪のたっぷり残った、昔さんざん写真で見て憧れた峰々を想像して羨ましい気がした。

数日後、その穂高で、Dさんは帰らぬ人となった。連休で忙しい仕事中にかかってきたその知らせの電話口で、僕は絶句した。

何年も音沙汰のないままの人ならともかく、数日前に久しぶりに逢った人が、それを最後にこの世から消え去ってしまった。まるで僕に最後の挨拶をしにきてくれたようではないか。後日談になるが、Dさんは僕を訪れたのと同様に、学生時代の知り合いに久しぶりに逢いにいくことがその頃多かったらしい。だが、そんなこじつけはいくらでもできる。

若く、まだ人の死などどこの世界の話かと思っていた頃、初めてそれを目の前に突きつけられた。はかない。ただ、はかないと思った。

小柄で色黒で、男勝りの喋り方が豪放な感じを与えたが、その実、気の優しい、細やかな心遣いをする人だった。こんど近くに行ったら寄らせてもらいますからと住所を書いてもらった、僕の住所録に残されたDさんの、いかにもDさんらしい字が絶筆となってしまった。今でも他の住所を捜して、そのページに目が止まってしまうことがある。

若くして逝ったDさんは穂高の峰に永遠に美しく在り、生きながらえている僕はいずれ老醜をさらすのかもしれない。人生とはいかにも皮肉である。


山登りを再開してからは、毎年のように上高地に足を運んだ。大正池や河童橋からはもとより、徳沢や徳本峠や焼岳で穂高岳の姿はさんざん眺めたが、実際に穂高と名の付く山に登ったのは、渓が生まれる前の月の西穂高岳だった。

無休で働いた夏休みが終わり、珍しく連休が取れ、さんざん迷ったあげくに目標を西穂高岳に定めた。もう妻は山には登るわけにはいかないので、山三昧にはせず、一日は温泉でゆっくりしようということにした。

僕が上高地から入山して、西穂高に登っている間に車を新穂高へ回してもらい、ロープウェイで下って合流、そのまま蒲田の温泉宿へ、という計画だった。

沢渡に着いた時にはすでに暗雲垂れ込めていたが、一縷の望みを抱いてバスに乗換え、上高地入りした。帝国ホテル前の停留所で降り、田代橋まで歩いていった。その頃にはすでに雨が降り出していた。

しばらく逡巡したけれども、結局諦めて、次の日に新穂高側から再度挑戦しようと決めて、その日は飛騨高山に遊んだ。

蒲田の温泉宿の朝は快晴に明けた。夏休みも終わったことだし、たいしてこむ混むまいと思っていたロープウェイの駅の駐車場にはすでにツアーのバスが並び、改札口には長蛇の列ができていた。これはいったいどうなることかと列に加わったが、意外と早く乗車でき、良かったと思ったのも束の間、すぐに降ろされてしまった。下調べをしない僕は、このロープウェイが途中で乗換があることを全く知らなかったのである。

そこで言い渡されたのは一時間待ちの宣告だった。なすすべもなく、阿呆面をして笠ヶ岳を一時間眺めているしかなかった。

西穂高口に着いたときには、宿を出てからすでに二時間以上もたっていた。これではわざわざ現地に泊まった意味がない。せっかくの快晴の空気の澄んだ時間を乗り換え駅で無為に過ごしたのがいかにももったいなく、腹立ちまぎれに駅からは脇目もふらずに突進した。妻とはそこで別れた。

西穂山荘までには、ウォークラリーなる催しをしているらしく、いくつかの検問所が設けられていた。そのせいで人も多かった。山荘の上の丸山で森林限界に飛び出すと、たおやかな這松の緑の斜面の上に西穂高岳とピラミッドピークと独標が並んで見えた。

ウォークラリーで次々と下って来る人を縫うように登っていく。径が険しくなって独標の岩峰に登り着くと、ここからの、吊り尾根でつながった奥穂高と前穂高の大観に見とれた。ピラミッドピークの奥に、まだまだ西穂高岳の頂上が高く見えた。

ここから岩稜の登降となるので、いつもは首からぶらさげているカメラをザックにしまう。が、ピラミッドピークの手前で、すでに身体の下三分の一を冬毛にかえた雷鳥のつがいがいたので、慌ててまた取り出す羽目になった。

西穂高岳に立った時には、すでに飛騨側に雲が湧き、ここで初めて出逢えるはずの槍ヶ岳は姿を見せてはくれなかった。それでもとにかく穂高と名の付く山に登れたことが嬉しく、ふたりいた先客が入れ替わりに下って、ひとりきりになった頂上で至福の一時間を過ごした。

その後、上高地まで駆け下った。梓川畔からは今日歩いた独標に続く這松の斜面が西日に照らされ、赤茶けて見えた。最終のバスに乗り、妻とは坂巻温泉で合流した。

遅きに失した、我が「青春の穂高」初見参の顛末である。


その二週間後の九月の最終日、今度は前穂高岳に登ろうと上高地入りした。

西穂高から見た、岳沢から前穂高へ伸びる重太郎新道の、ほとんど垂直とも思える尾根にジグザグに付けられた登山道が印象に残って、あれならば一気に高度を稼げるに違いなく、日帰りも可能だろうと思ったのである。

上高地のバスターミナルに着くと、あたりを覆っていた朝靄が今まさに天空に吸収されようとしていた。慌てて、僕は梓川のほとりに走り出た。

朝靄の中から頂稜に新雪を頂いた穂高が姿を現した。それはまさに劇的な出現といってよかった。まだ十代で、一番最初の穂高との邂逅がこんな日であったなら、卒倒するほど感動したに違いないが、中年にさしかかって、すっかりすれっからしになっている僕は、すこし足がもつれただけだった。知識や経験というものは、むしろ感銘を薄れさせてしまうことがある。

なかば走るように急いで河童橋に着くころには、澄んだ秋の大気の中に穂高の峰々は、すでにくっきりと全容を惜しげもなくさらけだしていた。振り返ると、焼岳が半透明のベールの中に赤茶けた山体を浮かび上がらせていた。

紺碧の空に、穂高の真っ白い頂稜が映える。明神岳の影が岳沢を覆っている。手元の温度計で摂氏三度。再び梓川から靄が立ち上がり、明神の影をさらに手前から白く覆ったりする。

寒さに震えながら河童橋のたもとでパンをかじって、妻とふたりでその光景を飽かず眺めていた。

本当はその雪化粧を見て、少し慌てた。雪の備えなど何もしていないあとで聞いたところでは、平年より十八日も早い冠雪だったらしい。

スーパーの特売で買った三千九百円のトレッキングシューズはもう半年履いて底もすり減り、いかにも心許ない気がしたが、今更どうしようもない。「行ってくるよ」と一言、上高地温泉に浸かって待っているという妻と別れて一路岳沢へと向かった。

岳沢ヒュッテまでは、途中河原に降りて穂高の峰々を撮影しながら登った。ヒュッテで一服した後、西穂高から見たジグザグに急峻な尾根に高度を上げる重太郎新道を辿る。森林限界に飛び出し、また一服。すでに上高地は低く遠い。周りは久恋の穂高の山々。落石の音が沢にこだまする。

途中、なんとなく足元のおぼつかない様子で鎖場を登る学生風の二人を追い抜いて、紀美子平へ着く頃にはすでに雲が上空を覆い始めていた。そこから上は雪の山径となった。しばらく登ったが、尾根を巻くように付けられている径の下が真っ白い雪の急斜面となっているのを見たら、これから先、そこを歩くのは躊躇せざるを得なかった。すでに標高は三千メートルに達している。そこでさんざん迷った。登りはなんとかなるが問題は下りだ。なんとしても諦めきれなかった。ええい、ままよ、と尾根に這い登り、尾根通しに径を探った。そこには無数のアイゼンの傷跡が岩に残されており、冬のルートと思われた。

雪に残された足跡もいつしかなくなっていた。真新しい雪を踏んで、岩の回廊を登ると、そこが前穂高岳の頂上だった。

霧の晴れ間に、ときたま涸沢を巡る岩の障壁が姿を見せる。黒い岩と白い雪のコントラストがいかにも寒々しかった。奥穂高岳はついに一度も姿を現さなかった。

前穂高岳に登った喜びも、下りの心配で打ち消されがちだった。それでも誰もいない頂上をパンをかじりながらウロウロして、新雪にこれでもかというくらい足跡を残し、三十分あまりを過ごした。

下り出してすぐ、足が痙攣を起こした。筋肉が堅いせいか、ある程度以上の登降を続けると症状が出てしまう。太腿の前がつって、それを伸ばそうとしゃがむと今度は腿の内側がつる。我ながら情けない筋肉をだましだまし、雪の尾根を恐る恐る歩いて、何とか無事紀美子平に辿り着いたときには心底ほっとして、むしろ登頂の喜びはこの時湧き出てきたものだった。しばらくゆったりした気分で休んだ。

紀美子平から下は雪もなくなり、雲の下となって下界が見渡せるようにもなり、明るい気持ちで下った。

このあと上高地の遊歩道に出るまで誰ひとりとすれ違うこともなかったから、途中追い越した学生風のふたりはきっと途中で引き返したのだろう。雪の奥穂高へ向かえる足どりとは思えなかった。

この日、前穂高岳に登ったのは僕ひとりだけだったのだのは間違いない。なんと贅沢な一日だったことか。


妻の妊娠中や渓が生まれて間もない頃に僕一人で登った山を再訪することが、渓を背負って三人で山を歩き出してから多かった。今回も同様で、西穂高岳にロープウェイを利用して登ろうということになった。

前年に行った時はまだ工事中だった安房トンネルが開通し、日帰りでも行く気がするようになったのである。もっとも、短縮される時間は三十分程度らしいが、あの安房峠の険路の真下に風穴が開いたという、気持ちの上での短縮感は大きい。

通い慣れた上高地への道も来るたびに良くなっていて、あれ、ここはこんな風だったかしらと思うこともしばしばである。釜トンネルを右に見送るとすぐ真新しい安房トンネルに吸い込まれていく。それを抜けると、はや飛騨の国。栃尾へ下って、道路脇のまだ新しい公園で朝の弁当を使った。

ロープウェイの駅には梅雨のさなかとて、客もまばらで、並ぶこともなく乗れた。前回一時間待ちで煮え湯を飲んだ乗換えもスムーズに済み、笠ヶ岳を眺めている暇すらない。ゴンドラの中では、どこへ行っても多い、中高年のご婦人方が寄ってたかって渓をあやしてくれる。渓にも笑みを返すくらいの社交性はすでにある。

ロープウェイを降りると冷気が身を引き締める。梅雨の晴れ間の空は大気の塵が雨に洗い流され、まるで秋のように透徹である。千石園地からは独標から西穂高岳への鋸のような岩稜がくっきりと見渡せた。

渓にミルクをやって、オムツを換え、出発する。

西穂山荘までは、樹林帯だから涼しいが、意外と急登もあって苦しめられる。ロープウェイで急に高度を上げるので身体が慣れていないせいもあるだろう。途中、渓と同じくらいの赤ん坊を連れた若い夫婦が疲労困憊の様子で休んでいた。背負い紐でおぶってきたらしく、それでは背負うほうも赤ん坊も暑かろうと思われた。

丸山で休憩する。下から登ってきて、森林限界を越え、初めて四囲の景観を手に入れられるここで休まない人がいたら、よほど神に見放された人であろう。しかも今日はこの天気だ。同じくそこに休んでいた中年の夫婦と、お互いに絶好の日和に登って来たものだと幸運を祝福しあった。人から借りてきたビデオで山々をパノラマ撮影をする。ついでに娘も撮る。本末転倒である。

圧倒的な山岳景観だが、それが未登の山々ばかりなのを喜べばいいのか悲しめばいいのか。笠ヶ岳から双六岳そして越中の国へ遠ざかる山並み。それらに見参できるのはいつの日だろうか。

丸山では前穂高は頂上を覗かせているに過ぎなかったが、登るにつれ岳沢まで見えるようになって、前年に登った重太郎新道のジグザグも見える。その径をひとりで辿ったことが、もう昔のことのように思われる。渓が生まれる前のことが随分昔のことに感じられることがある。知らず、自分の人生の区切りとしているからだろうか。

西穂独標で終わりにしようと思っていた今度の計画だが、つい欲をだして、もう少し行ってみようと岩稜を辿ることになった。しかしそれもピラミッドピークまでで、さすがにこれから先、岩に引っ掛けやすいベビーキャリアを気にしながら歩くには危険すぎるようにも思えた。

僕も暑さで参ってしまって、去年頂上は踏んだことだし、もうここで終わりにしようと、渓を降ろし涼風に吹かれていたのだが、身体が休まってくると、またぞろ悪い虫が起きてしまった。「去年は槍ヶ岳を拝めなかった。この天気ではきっと素晴らしく見えるに違いない。ここまで来て、頂上へ行かないなんて」と虫がささやく。それでももう渓を背負って行くわけにはいかない。となるとピラミッドピークを母子家庭にするしかない。本当ならば「俺は去年登ったから、今度はおまえは頂上に行ってこい。渓の面倒はみてるから」と妻に言わねばならないところだが、この親父は「せっかくビデオも借りきたことだし、槍ヶ岳でも撮ってくるわ」と取ってつけたような理由を考えだして「ほな、さいなら」と母子を置き去りにして頂上に向かうのだった。

ところが、頂上に着くと、槍ヶ岳はすでに雲の中。天罰てきめんとはこのことである。誰もいなかったが、まもなく女性がひとり登ってきた。

僕がピラミッドピークから出発したのと入れ替わりに登ってきて、僕のあとをついていけば頂上へ登れると思ってついてきたという。

穂高と名の付いた山に一度は登ってみたかったというのは、去年の僕と同じ。聞けば、ロッククライミングのグループに属していて、北岳バットレスの中央稜や小川山の屋根岩なども登ったこともあるという。そんな経験者がこの程度の岩稜に戸惑うのかといぶかしく思った。彼女の仲間は山の頂上にはてんで興味がないという。彼女はそうではなく、やはり山の頂上に登りたいという。そして仲間と離れてひとり、ひとつの山頂を目指すのは、それなりの緊張を強いるものであったということらしい。

ほとんど日帰り専門の僕にとって、頂上を踏まなければその一日は画龍点睛を欠く。どんな小さな山でも、その一日をひとつの山の頂上に捧げたい。今井通子さんが、山の頂上に登らずとも、山の中の気に入った場所で一日を過ごせれば満足である、と書かれていたのを何かで読んだが、僕はそんな境地にはまだまだ達っしない。

不埓な父親への天罰もさほど重くなかったらしく、雲の合間に槍の穂が姿を見せた。慌ててビデオに収める。あの槍にはいつ立てるのやらと投げヤリになって溜め息をつく。振り返ると、ピラミッドピークの上には置き去りにされた哀れな母子が蟻のように見える。さて、単身赴任を終わりだ。山頂を辞し、だんだん近付いてくる岩峰上の、実に場違いな赤ん坊をビデオ撮影ながら下った。

ピラミッドピークで、再び周りの山々を眺めて過ごしたあと、渓を背負って独標への岩稜に踏み出したとたん、足の筋肉が痙攣を起こした。情けないが、妻に渓を背負ってもらう。痙攣が起こると荷物を放り出してうずくまりたくなるのだが、赤ん坊を放り出すわけにはいかぬ。

西穂山荘からは、ようやく足の癒えた僕が渓を背負って、ロープウェイの駅へ急いだ。最終のひとつ前の便のドアが閉まる間際にすべり込むと、車内は観光客で意外に混んでいて、好奇の目にさらされた。

あっという間に下界に着くと、新穂高は、そことて相当な標高であるにもかかわらず暑さにうだっていた。あるいは、それはついさっきまで天上の涼風に吹かれていた僕の錯覚かもしれなかった。

蒲田温泉の外れの高台に新しくできた露天風呂は、西穂高岳を真正面に仰ぐ場所にあった。今自分の登って来た山を風呂から眺められるなんてことは、ありそうで、まずない。

五臓六腑にしみわたるビールを片手に眺める西穂高岳は、そこでは他のどの山より際立った金字塔だった。きっと昔、この地方では西穂高などという取って付けた名前でなく、もっと違った、尊敬のこもった名前で呼ばれていたのではないかと思われた。

(この名前については、後日、地元の温泉観光協会、遭対協、西穂山荘事務所、上宝村役場に問い合わせてみたが、いずれもはかばかしい回答が得られなかった。松本では北アルプスを、甲府では南アルプスをそれぞれ西山と昔は大ざっぱに呼んだという。そんなものだったのかもしれない)

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