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白山書房『山の本』39号に書いた紀行です。

                      西岳

その昔、八ヶ岳なんぞは人また人で閉口したなんて話を読んだり聞い
たりするが、この10年、僕が平日登山者だからか、人気の高い赤岳周辺
ですら人の多さに辟易したことなどない。キレットから南になるとさら
に閑散として、編笠山で学校登山にでも遭遇しない限りは大抵静かであ
る。 要は日を選ぶべきだと思うのだが世のしがらみでそうもいくまい。

しかし、たとえ日曜日でも縦走路からはずれた西岳ではたぶん静かな山
が楽しめると思う。編笠山と組み合わせて登られることの多い山だが、
特に日帰りであればそんな欲深なことはせずに西岳だけに1日を捧げて
欲しいものだ。人に言う資格はないのだが、山は一日一山が好ましい。

僕は一般的な不動清水からのルートは何度か登ったが、あまり話題に
なることがない立場川からのルートは未登で、気になっていた。

以前、6月の初め、富士見側から編笠山に登ったときの麓の新緑が忘
れられない。

いかにもコニーデ火山の伸びやかな裾に拡がる緩い勾配の森の中を浅
く沢がえぐっている。その沢沿いのようやく柔らかい草の緑に被われだ
した林床を、木漏れ日に日向になったり日陰になったりしながら蛇行し
て続くひとすじの径。あまりの気分の良さに歩き出して間もないという
のに大休止を決め込んだ。

あの美しい裾をひく西岳ならまたそんな径を歩けるだろう。そう思っ
てまだ歩いていなかった立場川からの径を探るべく犬のクリオと出かけ
ることにしたのは5月も終わり、山麓のカラマツがもっとも美しい春の
色を見せるころだった。

富士見高原を突っ切る鉢巻道路が立場川を渡る直前を右に入る。すぐ
にキャンプ場となって、いたるところに駐車その他有料である旨の看板
があるが、管理小屋が無人なので無断で車を置いて歩き出す。

一般車通行止のゲートから板橋区少年自然の家への道標に従って立場
川左岸の高みに上がると右に別荘地を見ながら防火線をたどるようにな
る。これがその自然の家だろうか、右に大きな施設の見える場所に道標
が立っていて、西岳へは左折する。すぐにコンクリート造りの配水池の
わきで林道を横切るとやっと森の小径の風情となる。

広闊な新緑の森は、地図に見る縦横に延びた林道を見ればすでに人工
林なのだろうが、いかにも安物の高原の絵にありそうな白樺混じりの森
も本物ともなればまた格別である。編笠山の麓の径とは雰囲気が異なる
ものの、これもまたいいなあとうっとりする。やがて径の真ん中にまた
ぐ1477.3mの三角点は点名を『廣原』という。いい得て妙である。
林道に出たところになかば倒れかけた道標があった。標がどちらを指
すのかはっきり確かめないで西岳から北西に延びる尾根に向かって適当
に林の中を直進した。

鹿でも歩いたのだろう踏跡がそこかしこにある。径はなくても林の中
は藪もなく歩きよい。その鹿でも追いかけているのか遠くでクリオの声
がする。一緒に山に行ってもクリオは勝手にどこかに消えて、たまに様
子を見に姿を現すだけだ。

道と交差するたびに地図とにらめっこして、たどりついたのは標高
点1688の少し先の林道終点で、そこに道標があった。どうやらここ
まで登山道でないところを歩いてきたらしいことがその道標を見て知れ
た。どこで誤ったのだろう、まあいい、帰りにわかることである。

少し登ると明るいカラマツの林となって、その間を縫うように続く径
は、あまり歩く人もないのかはっきりしない部分もあってそこがまた好
ましい。

1900m付近で径はいったん尾根の南側に出て、行く手が明る
く開ける。ここで初めて西岳のずんぐりと丸い頂上が姿を現す。

やがて尾根筋に戻るとあたりはシラビソの森となり、だんだん傾斜が
増してくる。北側の広河原沢へ落ち込む斜面こそ伐採をまぬがれた太古
の森なのだろう。暗く深い。

日頃も運動不足にはちと辛い登りもようやく終わり、懐かしい頂上へ
と着いた。初めての頂上の感激はないが、かねて馴染みの山頂に久闊を
叙すのもまたいい。

誰もいない頂上でパンを分け合いクリオと憩うひととき。思えばクリ
オとも、もう3度目の西岳だ。

ここの展望の主役は鋭く尖ったギボシか、あくまで丸く大きい編笠山
か。阿弥陀岳、中岳、赤岳がきれいな山の字に並ぶのも面白い。

遠望こそきかない日だったが、充分にお山の大将気分を満喫したのち
満ち足りて往路を下る。傾斜が緩んだ森の径を脚まかせに歩く心地よさ
を何といい現わせばいいだろう。

林道終点の道標からは登り損なった径をたどり、倒れかけた道標の場
所で径を誤ったことを確認した。

さすが西岳、結局誰ひとりに会うこともない静かな山歩きができた。

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