ロゴをクリックでトップページへ戻る

           御正体山(1月20日)             

年があらたまって初めての山である。前年の暮れに戸屋平に登って以来、ほぼ一月ぶりとなる。天気さえ良ければ必ずといっていいほど休日には山へ行くのだから、こんなに間があいたのには理由がある。

年始めに、ほぼ四年近くに渡って住んだ峠の茶店の二階に別れを告げ、河口湖の北岸の集落に居を移した。その作業で慌ただしく、暮れから山どころではなかったのである。

渓が生まれて三ケ月の頃、関東各地で未曽有の大雪が降った。峠にいた僕たちは一週間閉じこめられてしまった。今冬もそんなことがないとは限らない。たまたまその時は電気が途絶えなくて助かったが幸運だったにすぎない。そんなわけで店主が麓に家を借りてくれたのである。

たかだか三部屋に詰め込まれていた荷物が、運び出せばなんでこんなにあるんだろうという量で、自分たちで全てやり終えたものの、引っ越し業者があれだけあるはずだとあらためて認識したし、持ち家願望は引っ越しの面倒さにも起因するに違いないと思ったものだ。荷物を増やさなければいつも身軽でいられるのだが、僕の場合、特に本が足かせとなる。もう一生読み返しはしないだろう本が本棚に並んでいるが捨てるに忍びない。ただのケチである。未練である。狭量である。小心である。

わかっていても踏み切れない。読んでつまらなかった本でも自分の買った本には妙に愛着がある。本を読むだけなら図書館で事足りる。本は買うことに意義がある。物欲と笑わば笑え。

ともかく、四年ぶりに人里の人となった。国道に面した家はトラックが通ると揺れ、すこぶるうるさい。しかし、峠にいたときは夜めったに通らない車の音に目覚めたものだが、これだけひんぱんに車が通れば気にならなくなる。だいたいこれまでの人生で、うるさい場所に住んでいたことのほうがほとんどである。人里にいる安心感もやはりある。夜は安眠できるようになった。僕のような都会育ちの人間にとっては、過ぎた静寂は感覚を鋭敏にさせて、かえって落ち着かなくさせることもあるのかもしれない。人間が社会的動物である所以か。

渓との初登山だった升形山や淵ヶ沢山に同行したA君とY嬢が店がシーズンオフに入って共通の休日が取れるようになった。じゃあ、久しぶりにどこか一緒に登るかとの話となり、峠に住んでいるときは国中の山に行くことが圧倒的に多かったので、わずかながらでも近くなった郡内の山へ久しぶりに出かけようということになった。

彼らは以前、御正体山に鹿留川側の池の平から入って径を失い、藪を漕ぎ沢を登って散々な目にあって結局頂上を諦めたという。よし、それなら御正体にしようじゃないかとの結論になった。御正体山は日本アルプス方面にばかり目がいっていた学生時代に珍しく登った、わが大学の地元の山である。

大学一年も終わろうとする春休み、数人と連れだって一泊二日の予定で細野から登り始めた。記憶がすでにあいまいだが、遅い出発だったので一日目は頂上を踏まず、テントを張ったのは多分峰宮跡だった。春の雪が割と深かった。

まったく申し分のない太古の漆黒の闇の中、その夜は怪談話に打ち興じたものだった。その頃は山の歴史など知るはずもなく、ましてや妙心上人が即身成仏を遂げた山であることなど露ほども知らず、もしそれを知っていたらますます怪談話が迫力を増しただろうに。こういうのを知らぬが仏という。

翌日、頂上を経て山中湖へ抜ける予定だったのが、案の定寝坊してしまい、頂上を往復しただけで鹿留川へ降りてしまった。易きに流れるのは昔も今も変わらない。

降り立った鹿留林道を東桂駅までが長かった。いい加減うんざりしたのが記憶に残る。山は雪だというのに、川沿いにはすでにネコヤナギが芽吹いていた。

山登りを再開してからすぐの春先、妻とふたりで道坂トンネルから尾根を辿って達したこともある。しかしそれももう十年前のことになる。

さて、三回目となる御正体山。ただ登るだけじゃつまらない。僕の数年来の懸案を片付けさせてもらうことにする。鋸刃である。

文台山に登ったとき、頂上直下に鋸刃からくる踏み跡を見て、いつかはこの尾根を辿りたいなと思いながらいたずらに月日がたっていた。細野の三輪神社から一般登山道を峰宮跡へ。頂上を往復したあと西へ鋸刃を辿り文台山の登山道へ合し細野へ戻れば、ほぼきれいな周遊となる。



昨夜の暖かい雨が早朝の急な冷え込みで凍りつき、すこぶる危険な河口湖畔だった。あちらこちらに事故をした車が止まっている。慎重に運転しながら湖畔を抜けてバックミラーを見ると、後ろについてきているはずのA君たちの車が見えない。よもやと思ってしばらく待っていると、ようやくのろのろとやってきた。事故をするくらいならゆっくり走るにしくはない。山の行き帰りに事故をするほど馬鹿馬鹿しいことはない。ほっとして再び出発する。

富士吉田から桂川に沿って標高を下げていく。そして久しぶりの都留市。ここでの学生生活を思い出すと冷や汗三斗、穴があったら入りたいというが、穴がなければ掘ってまで入ってそこに身を隠してひたすら念仏でも唱えていたい心境である。

随分変わってしまった大学前の通りを足早に通過、鍛冶屋坂を登って道志へ向かう道に入る。細野への道を分けるとほどなく三輪神社の参道を右に見、その先で林道に入る。わずかに入ったところの広い場所に車を停めた。

久しぶりのにぎやかな出発となる。クリオが今日も同伴だ。A君たちも犬連れである。人家のありそうなところまではつないでいくことにする。林道をぶらぶら登っていくと別荘のような建物が散見される。仏ノ沢を渡って沢沿いに林道は続く。もうそろそろいいだろうと犬を放してやると欣喜雀躍としてすっとんでいく。犬には犬の速度がある。

林道終点から二万五千分の一地形図の破線はそのまま尾根に入ってしまうが、実際には尾根の東側に径は続き、やがて沢を渡って破線の入った尾根のひとつ東の尾根を辿るようになる。つまり林道終点から神社記号のあるところまで地形図の破線はまるで間違っていることになる。(神社記号を峰宮跡とするなら、これももう少し南が正しい)山のガイドブックでもこの地形図をそのままなぞっているのがある。同じ出版社の古いガイドブックでは間違いがないのだから不思議である。

沢を渡る場所で休憩した。渓にはキャリアに乗せたまま飲み物を与える。

登るにしたがって雪が現れ、その雪には今朝のものと思われる足跡があった。その足跡をなぞるように歩を進めていった。春のような陽気で渓を背負った僕はもう汗だく、Tシャツ一枚になる。

割と調子よく高度を稼いで、神社記号のある御正体山の北尾根に飛び出し、富士の大観に迎えられた。

いつも見ている御坂峠の富士では中央より左にあった吉田大沢がほぼ中央に来る。御坂峠では見えない宝永山が左の稜線に姿を表し左右の均衡を崩している。そして裾野の端から端まで広大な面積を占める枯れ草色のベルト地帯は自衛隊の演習場である。日本の象徴を仰ぎながら演習すれば愛国心も高まるだろうという意図でもあるのだろうか。それとも単にこれだけ広大な場所が日本にはここしかなかっただけのことか。いずれにせよ平和というものには金がかかるものだなあ。

峰宮跡を通過すると樹相に深山の気が漂う。気分よくゆるやかに高度を上げて、やがて広い山頂に導かれた。

雪の上の足跡の主がふたり昼食の真っ最中だった。せっかく静かな山頂を独占していたのに賑やかなのが登ってきたと迷惑顔である。そりゃそうだ、犬が二匹走り回っているうえ、赤ん坊が奇声を上げている。犬はしばらくつなぐことにする。

ちょうど昼時、我々も昼食とする。うっすらと積もった雪は春のような日差しに溶け、すでにところどころ地肌をあらわしている。思えばいつも木々が葉を落とした時季に登っていて、このブナやミズナラの生命の謳歌を見ていない。新緑や紅葉はさぞ素晴らしかろう。日本の山の良さは、多くその草花、樹林にある。それは四季がはっきりしている日本の気候による。ならば、山も四季を通じて味わうべきであろう。だが、ひとつひとつの山の四季を味わうには登りたい山が多すぎる。人の命のなんと短いことよ。

食事を終え、渓と手をつないで頂上を散歩していたら一時間がすぐに過ぎ去った。これからが鋸刃の正念場だというのに呑気なものである。

峰宮跡を過ぎ、朝方登ってきた径と反対側の尾根を下る。これが鹿留川へ下るルートだと道標にある。標高一四五○メートル付近から鹿留川への径は左折し、南へ分かれる尾根に入る。目指す鋸刃はそのまま西へ主尾根を辿るのだが、入口がよくわからない。とりあえず一服とする。

ここは見晴らしがよく、三ツ峠から御坂の山々の上に南アルプスの白い山並みが午後のかすんだ空に溶け込みそうになっている。文台山につながる、これから辿る尾根もはっきりと見渡せる。その方向の藪に顔を突っ込んで径を探る。悪天であれば、相当苦労することになるだろう。

ベビーキャリアに藪よけをかぶせて、見当をつけた方向に入っていった。考えていたほど甘い藪ではなかった。左右の枝が容赦なく身体を叩いていく。東京から近い山なので割と人に歩かれているのではないかと予想していたのだが、そうでもないらしい。踏み跡も途切れがちになる。標高点一三二八は北側から巻いていく。次の小ピークから西へ向かうところを北へ誘い込まれた。W.フォレストさんが『遊歩百山』に書かれていた鋸刃の紀行で、ここは北に引き込まれやすいことを書かれていたのを覚えていたので、早目に気付いて戻ったが、登り返しは辛かった。もっともこのまま下ってしまえば割と簡単に細野へ行けそうだ。そのまま下ってしまった人も多くいて、それで径がはっきりしていたのかもしれない。悪天の場合はここからエスケープするのが良さそうだ。

次の小岩峰がフォレストさんの紀行では難物とあるが、なるほど手強かった。もっとも、この岩峰は低いからか地形図にはあらわれていないようだ。落石を警戒して、ひとりずつ登る。渓を背負った僕が最初に登った。つかんだ岩が落ちそうだったのでそのまま落とすと、はるか下のほうで音が反響した。樹木で見えない谷の深さが知れて肝を冷やした。

ようやく犬を含めた全員が岩峰の上にたってそこで一服とした。もう三時になる。地図を広げ、先の長さと日の短さの関係に思いが至った。ゆっくりしている暇はない。少なくとも暗くなる前には文台山の尾根へ
出なければならぬ。

灌木のなかに径を求め山稜を辿る。やがてこれをハガケ山というのだろうか、このあたりでもっとも高いピークに着いた。時間がないのでそのまま通過。ここから灌木の藪と打って変わって丈なすスズ竹の藪となった。ざわざわとそれを分けて進む。下っては登り、登っては下る。いい加減うんざりする頃、ぽっとスズ竹の藪が途切れで到着したピークは、ちょうど地形図が『御正体山』から『都留』に移るあたり、尾根が北西に屈曲する場所と思われた。

焚火の跡があって、ゴミも散見される。山菜採りやきのこ狩りがこの辺くらいまではやって来るものとみえる。続く尾根を見やると藪など皆無。快い雑木林には落ち葉が深く積もっている。ほっとして最後の大休止とした。残った飲み物を皆で分ける。渓を降ろして久しぶりに肩が軽くなった。藪漕ぎで痛い目にあったのだろうに、渓はほとんど声を発しなかった。顔を見ると二三傷がはいっている。許せ、藪漕ぎとはそういうものなのだ。振り返ると手強かった鋸刃がすでに夕日に染まっている。ハガケ山が鋭く大きい。二匹の犬もさすがに疲れているらしく、僕たちが休めば、すぐに休憩にはいる。クリオにセンサーをつけて、山でどのくらい行動しているか調べたら面白かろう。きっと僕たちの数倍の距離を歩いているに違いない。

藪はなくなったものの、さらに小さな登降が繰り返され、ついに僕の足の筋肉が情けなや不吉にピクピクと痙攣し始めた。妻も腹具合が悪いと遅れ始める。A君たちに先行してもらう。

遅ればせながらふたりの待つ文台山の登山道との合流点にたどり着いたときにはすでに夕闇迫り、見下ろす都留の街並みには灯りがゆらめく始末。まあ、ここまで来ればまずはひと安心。

四人いてザックに懐中電灯を忍ばせていたのは妻ひとり。しかもそれにはいつのものとも知れぬ電池が入ったまま。ザックの底から引っ張り出してみれば、それでも細々ながらも明かりを灯す。

まだ何とか径が見える。A君たちには急いで下ってもらう。調子を整えたのち僕たちも後を追う。

下り一方だと思っていたのが、三回辿った径なのに記憶などあてにならぬもの、いくつかの登りが現れる。ほんのわずかの登りでも僕の足はすぐ拒否反応を示す。そのたびに屈伸運動し筋肉を揉みほぐす。

ついに懐中電灯なしには歩けなくなった。二人に一つの明かりがぼんやりと行く先を照らし出す。時たま、クリオが暗闇の中で待っていてくれてギョッとする。暗くなってから背中の渓はほとんど黙ったまま、嘘のように静かだ。心配になってたまに顔を除き込むが別に異状があるわけではなさそうだ。暗くなったらお休みの時間だとでも思っているのだろうか。この状況で背中で泣かれでもすると悲壮感が漂うので好都合ではある。

矢花山との鞍部から登山道は尾根から離れる。その分岐が暗闇の中では多分わからない。A君たちはどうしただろうと先を急ぐと、ほどなく闇の中から声がした。案の定僕たちを待っていたわけだ。

懐中電灯で照らすといとも簡単に白い標識が目に入った。もう安心、意気揚々と下った、と言いたいところだが、四人とも相当へばっていた。ようやく細野の灯りが見えてほっとしたのも束の間、そこから車へ戻るまでの車道がすこぶる長かった。

車にたどり着いたときにははや七時。歩き足りなければ車に乗りたがらないクリオもドアを開けたとたん飛び乗り早く帰ろうという顔をする。まあ待て、人間様にはもう一ラウンド大事な用がある。相当な長丁場をこなし、相当な汗をかいた。ラジオでいうにはこの日は四月上旬並の気温だったという。暑いわけだ。こんな時にはほら、格好のご褒美があるではありませんか。ビール、ビール、ビールです。

富士吉田まで戻って、手早く風呂で汗を流したあと飲んだビールはうあかったなあ。冬には稀な会心のビールだった。人になぜ山に登るのかと問われて、一番うまいビールが飲めるからだと答えることがあるが、あながち冗談ではない。こんなうまいビールが飲めるなら、鋸刃だろうが包丁の刃だろうがまた行くぞと気炎をあげた。

横を見ると顔に傷のある赤ん坊が健啖家ぶりを発揮している。おまえには疲れというものがないのか。おそるべしこの一才児。

山旅は赤ん坊背負ってに戻る   トップページに戻る