ロゴをクリックでトップページへ戻る

                 升形山(3月24日)

この年の正月6日のことだった。年始の営業も一息ついて、休みをもらったものの天気もおもわしくなく、2ヶ月半になったばかりの赤ん坊もいることだし、何となく出かけそびれていた。自宅ならともかく営業している店の二階に住んでいるのだから休日に出かけないことなど滅多にない。しかしこれが偶然とはいえ幸運だった。

することもなく無聊をかこっていたら、山村正光さんが山仲間とともに旧御坂峠から降りてきて店に立ち寄られた。

その面々は、横山厚夫、康子夫妻、大森久雄、山本健一郎、山田哲郎、泉久恵の諸氏だった。皆、僕がその本や文章を自分の山行の教師としている人達である。もちろん初めてお会いする人ばかりである。すっかり舞い上がってしまって、本棚から著書を探すのももどかしく署名をせがんだ。

なかでも横山厚夫さんは高校時代の図書室にあった『登山読本』(山と溪谷社)以来の読者で、『一日の山・中央線私の山旅』(実業之日本社)は山登りを再開してすぐ買い求めて手垢にまみれるくらい読んだものだ。それを読んで出かけた滝子山で、大鹿川に下るスズ竹を切り開いた径にこの本の滝子山の項のコピーが落ちていたのを同好の士がいるのだなと嬉しい思いで拾い上げたのも懐かしい。それ以外でも新本古本にかかわらず横山さんの名があればすぐに買った。それに導かれてどれほど山に登ったろう。

一緒に記念撮影してもらったりした後、皆さんを最寄りのバス停まで一時間歩くのも大儀だろうと車で送って差し上げた。助手席に横山さんがお乗りになって、緊張して何をしゃべっていいのかもわからずしどろもどろしてしまったのはもったいない話だった。

甲府へ帰る山村さんと前日のバスに忘れ物をして甲府の営業所に取りに行くという大森さんを除く一行を三ツ峠入口のバス停で降ろし、ついでだからとお二人をそのまま甲府までお送りした。なんといっても僕に山登りを再開させるきっかけとなった本の著者と編集者を自分の車に乗せているのだから、これも身にあまる光栄と言わねばならなかった。大森さんが先年上梓された『本のある山旅』(山と溪谷社)にも僕はいたく感銘を受けていたのでなおさらだった。

その道すがら、40年間中央線の車窓から車掌として山々を眺めてこられた山村さんは、あそこに見えるのは何々山、その向こうが何々山と嬉しそうに山座同定に余念がない。どんな車窓からも山を眺めておられる人なのである。

この日ほど天気が悪かったことに感謝したことはない。

その後、横山さんからご丁寧にその時のお礼にと新しく上梓された本を戴いた。『ある日の山 ある日の峠』(白山書房)である。その中の一編にあったのが、曲岳、升形山、黒富士の紀行であった。

その前の年の3月、妻と越道峠から鬼頬、黒富士、曲岳と歩いたことがあったので懐かしく拝見したものだ。僕が歩いたときは黒富士が主目的で、そのすぐ隣の升形山は予定になかった。曲岳も予定になく、帰りは八丁峠から下ろうと思っていたのだが、八丁峠まで来ると時間もまだあることだし、観音峠からの往復しかしていなかった曲岳まで朱線をつなげないのももったいなく思われてきた。そこで曲岳を再訪。その後いったん東の鞍部へ戻った。

ここから東側にある小峰にかけてが、横山さんの書かれている「整った円錐形の曲岳を間近にあおぐ、なかなか乙な場所」である。「曲岳庭園」と上野巌さんの『続山梨のハイクコース』(山梨日日新聞社)には書かれている。アヤメの名残があった。その季節には群落をつくるのだろうか。

この小峰は八丁峠からくる時は北側を巻いて来たが、ここから西南に延びる尾根には踏み跡がありそうに思えて登ってみると南に向かって案の定踏み跡が続いていた。よし、これを下ろうということになったが、まもなく径は藪の中に消えてしまった。この辺を散策する人たちの踏み跡だったのだろう。でも、もう引き返さない。1376m峰との鞍部に向かって急降下する。平見城の畜舎もそう遠くには見えない。

辿り着いた鞍部は茅ヶ岳と金ヶ岳が変わった形で眺められる目の荒い黄土色の砂地だった。似たような砂地を須玉町の斑山で見たことがある。同じ組成によるものだろうか。そこから沢伝いに降りて車道に合流した。その時に八丁峠の登り口を確認しておいた。

実は、この山行のあとに妻が身ごもっていることを知らされたのである。妻は薄々気付いていたらしいが僕はまったく知らず、少々普通でない所を下ってしまったわけだ。

黒富士から升形山のきれいな三角形を見た。横山さんの本を読むまでその頂上がそんなに展望のいい所だとは知らなかった。そこで、未登で、歩いてみたい径があって、静かそうで、さほど行程が長くなく、そんな去年の思い出もあって、と、この山が渓との初登山にまことにふさわしい山に思えてきたのだ。

天気は快晴に明けた。今回はA君とY嬢が一緒である。年齢はずっと下の、僕の同窓生で、大学卒業後2人で麓に家を借りてシーズン中の茶店でアルバイトをしている。4月に入ると店が忙しくなり同時には休めないのでこんな事ができるのも3月一杯である。

もともと山などに興味のなかった二人だが、ここにいる間に一度くらいはと登った富士山ですっかりはまってしまったらしい。夏の富士山に登って山登りに開眼する人は案外少ないのではなかろうか。

今までのように気軽にさっと出かけるわけにはいかない。ミルク用のポットにお湯を詰め、着替えやらオムツやらと慌ただしい。A君たちとは峠の入口の駐車場で7時に待ち合わせているので自分達だけの時のようにゆっくりもしていられない。僕たちの犬クリオと彼らの犬ポンを連れていくので1台には乗り切れず2台連ねていくことになる。車に荷物と赤ん坊と犬を積み込んでいざ出発。

峠に住むようになってから僕たちの登山はまず下山から始まる。下らなければどこへも登れないというわけだ。ま、車で行くのだから苦労でもないが、この峠より低い山に登りに行く時は少々変な感じがする。途中食料を仕入れて、甲府の北バイパスから敷島町へ入り平見城の登山口に向かう。観音峠への道から分かれてすぐ、地区の公民館があってその前が広場になっているのでそこに車を止めさせてもらうことにする。

車を利用した登山では駐車場に苦労することがしばしばだが、僕は有料でもそうした施設があれば利用するようにしている。だが実際はそんな所は少なく、人のあまり登らないような山ではなおさらで、林道の広くなった場所などを利用することになろうが、なるだけ遠慮がちに駐車すべきだと思う。見た人に、ああこれなら邪魔にならないなと思わせることが必要だ。まだ車で奥に入って行けそうでも、いい場所があったらいさぎよくそこに停めて歩けばいいのである。

草原になっているその広場で朝食を摂る。渓にもミルクをやる。食欲旺盛ですぐに空にしてしまう。オムツを換えて着ぐるみを着せ手袋をはめ帽子をかぶせる。赤ん坊は運動するわけではないのだから少し厚着にする。幸い風はなさそうだ。

ふたりきりの時には経験したことのない山行準備を終えて、車を隅のほうに停めなおし、今回は妻が渓を背負う。ベビーキャリア自体の重量と合わせて10キロ程度なので、もろもろの詰まったザックより軽いが、それも最初のうちだ。重量が背中に密着していないので、一歩一歩後ろに引かれる感じになって、歩いているうちにまるで子泣きじじいのように重くなっていくのだ。

左に新しい養鶏場の建物を見て曲岳から八丁峰に連なる大伽藍に向かって登っていく。

金ヶ岳から黒富士にかけての山々を敷島アルプスと呼びたい云々、という記述を読んだ覚えがあるが、そういうハイカラは似合わない。ここは『甲斐国志』にのっとって平見城火山群とか平見城山塊とでも呼ぶべきだろう。

まもなく右の沢に下る小径がある。去年確認しておいた八丁峠への分岐である。沢を向こう岸に渡ると車が通れそうなくらいの道が沢伝いに続いていた。犬を放す。いつも山で鍛えているせいか間違いなく我々のこれから進む方向に走っていく。

左右の木が少し覆いかぶさっているものの歩き良い。昔は開拓小屋でもあったのか割れた瀬戸物が散乱していたりする。

小沢を渡ると山径らしくなってきた。同時に雪も現れはじめる。雪が植林されて間もないヒノキを押し倒したりしていて径がわかりにくくなることもあったが、おおむね沢沿いに続いていた。せせらぎの脇には落ち葉の敷き詰められた平坦な場所もあり、新緑の頃にでもテントを張って日がな一日のんびりしたらいいだろうなと、暇があってもそんな優雅な真似は絶対しないくせに思うのだった。

渓は妻の背中でおとなしく運ばれている。背負子に乗るのが別段不快なわけではなさそうだが、立ち止まると泣いたりする。そういえば車に乗せている時も動いているときはいいのだが、信号待ちで止まったりすると機嫌が悪い。振動が気持ちいいのだろう。おかげで休憩の時もそこらを動き回っていなければならない。

これが原全教さんの『続奥秩父』(朋文堂)にある赤岩というのだろうか、左の頭上に大岩を見あげて進むと、茅戸の斜面に灌木がうまい具合に配置された庭園のようなところを径はジグザグをきって登るようになる。

クリオが対面の山腹の雪の斜面を一目散に駆け上がっている。よく見るとその先をカモシカが逃げていく。さすがのクリオもカモシカには追いつけないようだ。中型の雄犬クリオは山に連れて行ってもほとんど一緒にいることがない。いつも勝手に走り回っている。こっちもなんとなく犬の存在を忘れて歩いていると突然藪の中から飛び出してきたりするものだから、名前どおりの真っ黒な犬ゆえに、すわ熊かと思わず身構えてしまったりする。一方ポンは大きな雌犬で、クリオに比べれば動作もゆったりしていてあまり人から離れずについてくる。二匹とも捨て犬だった。山に連れて行ってくれる人に拾われた犬は幸せというべきだろう。もっとも犬連れでは行きづらい山も昨今では多いが。

遠くに見えるクリオを呼んで、歩き出すと、ほとんど次の瞬間には、もう後ろにいるのだった。なんとも四つ足の速い事。

やがて八丁峠にひょいっと飛び出る。小さな標識がひとつ。八丁峰の北側の巻き径は雪が深くてとても歩けそうにない。八丁峰を忠実に越える事になる。
妻と交替で僕が渓を背負う。

ここから多少藪っぽくなる。子供を背負ってなければなんのこともない灌木の藪でもなかなかやっかいだ。自分の身体と初めて使うベビーキャリアとの位置関係がまだ理解できていない。自分の頭が枝をよけてもその枝が娘の顔の前にちょうどはいってしまう。普通のザックなら構わず強行突破できるところを、しゃがんだり身をくねらせたりと煩雑なことこの上ない。妻に直後を歩いてもらって「もっと右に寄って」「もっとしゃがんで」と指示を受ける。しゃがむのはとてもつらい。それでも時々は小枝が渓の顔を打つこともあって泣き声をあげる。あやすために背中をゆする。倍も疲れてしまう。

八丁峰の頂稜に達すると藪もうすくなる。去年登ってきた鬼頬からの径を合わせたあと北側鞍部にいったん下って、升形山へは残雪の茅戸の斜面を疎林を縫うようにてんでに登っていった。

頂上の岩によじ登ると視界が開けた。まだまだ白い八ヶ岳や金峰山の頂稜。五丈石だけが黒くその上にのっかっている。南の方角には甲府盆地が霞んでいる。

ここから見る黒富士は名前通りの富士山型というにははばかれる姿だが、この北の1624m峰から見ると本物の富士山の横にシルエットの黒い富士の形に見えることを山村さんが看破された。つまり、木賊峠を越えた往年の金峰山の宗教登山の人々が命名したのだろうという。升形山の名もその方面から見た姿からの命名らしい。いずれその姿をこの目で確かめたいと思う。

渓が泣き出す。腹が減ったのだ。以前から渓はオムツが濡れたくらいでは泣きはしない。父親に似たのだと妻は言うが、そんなことが似るのだろうか。

最高の眺望の中で昼食とする。二人きりのときはいたって静かなものだが、今日はにぎやかだ。ミルクができるまで渓は泣きやまない。平日にこんな山に登ってくる人もないとも思うが、もし頂上に近づくにつれ赤ん坊の泣き声が聞こえてきたら気味悪くなって引き返してしまうのではなかろうか。

1時間ほども頂上で過ごした。人間の何倍も動いている犬たちも昼寝をしている。5ヶ月児は升形山に登った最年少記録かもしれない。となれば升形山の神様の印象にも特別強く残って何かと目をかけてもらえるかもしれない、などと虫のいいことも考えてしまう。

ともあれ、まわりにはこれまで世話になった、これから世話になるであろう山々がひしめいている。それらと記念写真を撮る。これからもよろしく。

帰りは無難に往路を下った。出発点の養鶏場で卵を買った。自然肥育の放し飼いの鶏の卵だという。ひとつ百円也。ひとつ十円の卵を十個食べるのとどちらが栄養があるのだろうとついケチな計算をしてしまうのだった。

心配だったのは長時間ベビーキャリアに乗っていて股が擦れてしまわないかということだった。下山後に調べてみて、赤くもなんともなっておらず安心した。

なにはともあれ渓との初登山は無事終わった。実にめでたいと、何にでももかこつけて飲む理由にしてしまう僕たちは、帰りに寄った居酒屋で、渓を横に寝ころばせて哺乳瓶をくわえさせ、僕たち四人は大人のミルクで気炎をあげるのだった。

山旅は赤ん坊背負ってに戻る   トップページに戻る