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本になった、日経新聞『ふるさと山紀行』がわりと評判が良かったようで、『山紀行・味発見』という題で新たなシリーズが始まった。新シリーズではこれが僕の初めての担当となる。山の紀行に当地の味をからめてという企画なので、はじめは巨峰ぶどうを味の紹介で取り上げようと思っていたのだが、聞けば収穫の最盛期はほぼ9月いっぱいで終わるとのこと。掲載が10月はじめだからそれではちょっと具合が悪いだろうと、登山口のレストランに白羽の矢をたてた次第。(後記 その後登山口にあった施設「フフ」は休業したもよう)

文中、「この山の紀行をある山の本に書いた」というのは、この雑記帳にあるもうひとつの『小楢山』のことです。

小楢山

甲斐の国の中心は甲府盆地である。周囲を限るのはいずれ劣らぬ日本有数の山並だが、前衛には気軽にハイキングのできる小粋な山々も多く、味噌や醤油は欠かしても山は欠かせない山歩き中毒には願ってもない頓服の産地といえる。私が山梨県に住んでいるのも自分が重症患者のひとりだからである。

盆地の北東部、巨峰ぶどうで知られる山梨市牧丘町にあって、その名も巨峰の丘と呼ばれる、一面をぶどう棚に覆われたなだらかな山すそをひくのが、そんな小粋な山のひとつ、小楢山である。

お椀を伏せたような丸い山容は、すぐ隣にある三角形の大沢山との対照の妙で、JR中央線塩山駅付近の車窓から北西方向を望めば誰にでも見分けがつくことだろう。

巨峰の丘に迷路のようにはりめぐらされた農道を、山頂方向の高みを目指せば間違いないだろうと車を走らせる。やっと小楢山へと続く林道の入口を捜し当て、突然悪路となった道に、もはやこれまでと車を捨て歩き出したのは、もう十数年前の新緑の候。結婚して間もない妻とふたりでせっせと盆地周辺の山を歩いていた頃のことだった。

林道入口はすでに盆地を見下ろす丘の上で、御坂山地を抜いて富士がぬうっと顔を出していた。何やら大規模な建設工事中で、この景観を生かした公園でも造るのかと思われた。

杉や檜の暗い林道歩きはつまらない。道の脇に見つけた踏跡をバイパスと読んで入っていく。
 
これが山仕事の道だと気づいたときにはもうかなり歩いていた。戻るのも癪なので、あとわずかに登れば小楢山の東南尾根に乗れることを地図で確かめ、そのまま進む。

ツバメオモトがやけに目立つその尾根にはかすかな踏跡が続き、さしたる苦労もなく頂上へと導かれた。

頂上一帯は錫杖ヶ原と呼ばれる高原で、白樺林の彼方に五丈岩をいただいた金峰山がどっしりと大きかった。

小楢山は、誰が名づけたか「母恋しみち」「父恋しみち」という二筋の登山道を持つ。山行後、ある山の本にこの日の紀行を書くことになった時、そのひそみにならい、偶然歩いた尾根道を「君恋しみち」と勝手に命名したのは、新婚時代ゆえの厚顔だったか、今思えば気恥ずかしい。

その時登山口で建築中だったのは宿を兼ねた洒落たレストランだったとはあとで知った。

若い二人なら、ハイキングのあと、そんなレストランで灯ともし頃の街を見下ろしながらワイン片手に語り合えば、いやが上にもムードは高まろう。しかし、もはや縁なき衆生には実に口惜しすぎる想像ではないか。


 寄り道

本文中で紹介した施設は「オーチャード・ヴィレッジ・フフ」(0553‐35‐4422)といい、和、伊、仏の食事が楽しめるレストランと宿泊施設がある。

見下ろす甲府盆地と彼方の富士の眺望。どことなく欧州中世風の建物は、エッシャーのだまし絵をちょっと思い起こさせる不思議な雰囲気をもつ。いずれも食事の味をさらに高めてくれる演出として申し分ない。

親しい二人が、ちょっと贅沢してここに一泊で余裕のあるハイキングとするなら、きっといい思い出となるだろうが、男同士では残念ながら似合わないだろうなあ。口惜しいが、麓の鼓川温泉にでも浸かって、湯上りにビールを一杯というのが無難な線でしょう。


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