小楢山(10月15日) 渓の満一才の誕生日が僕の休日と重なった。 渓を担いで山に登り始めてもう半年以上が過ぎた。毎日見ていると成長の様子がよくわからないが、初めて登った升形山の写真を見たりすると随分大きくなったものだと思う。当時は寝ころがっているだけで、まだ這うこともできなかったのが、今では元気に這い回り、つかまり立ちもできる。日に日に体重も増していて、山では親父は段々苦しくなる。 一才の記念にどこか高い山に登りたかったが、前日の予報は良くなくどうもアルプス級というわけにはいかないようだった。というわけで、僕もまだ登っていない飛龍山に一応行き先を決め、寝たのだった。 まだ明けきらぬうちに峠から下りていった。久しぶりにクリオを連れていく。五月の金峰山以来だから五ケ月ぶりである。その間、犬を連れていくのがはばかれるような山にばかり登っていたわけだ。 凶暴な犬ならいざ知らず、人に危害を与えないよう訓練された犬を山に放して歩いても、そう目くじら立てることもあるまいにというのが僕の考えである。アルプスなどでは、犬が野生動物に脅威を与えたり、病原菌を持ち込むなどの理由で犬連れを禁じているようだが、それなら人間はどうなんだと文句のひとつもつけたくなる。犬は人間ほど勝手なことはしないぞ、と犬に聞いたら怒るだろう。まあ、それでも人目を気にしてまで犬を山に連れていくのも業腹なので、アルプス級の山は遠慮しているというわけだ。 クリオの場合は僕たちと山に行かない日でも、隣の家まで六キロ近くも離れている茶店ゆえ、放し飼い状態である。登山者の後について三ツ峠や黒岳くらいまでは勝手に行っていることもあるようで、ストレスを感じることもないだろうが、それでも朝、山の格好をしているとわかるらしく、一緒に行きたいとちぎれんばかりに尾を振る。犬にとっては、飼い主と山に行くことが何より嬉しいのである。それを半年近くも裏切っていたわけだ。 塩山から青梅街道に入る。行く手には頂上稜線を雲に没した大菩薩嶺が立ちはだかっている。千九百メートル以上は雲の中といったところだろうか。似たような標高の飛龍山も同じような状況かと思うと、わざわざ柳沢峠を越えて、遠く後山林道の奥まで行くのが億劫になってしまった。 左手に、小楢山がどっしりと盛り上がっている。千七百メートル余りの高さなので雲に隠れることもなく全身をあらわにしている。それを見たら、久しぶりに小楢山に登ろうかという気になった。 まだ初登頂が競われていた時代、ある未登の山に登るとき、その頂きに至る最も簡単なラインが選ばれた。そのあと、より困難なバリエーションルートの時代に移るのである。 僕の個人的な初登頂時代も、いかにその山の頂上に手っ取り早く達するかということに腐心していた。高尾山に初めて登った時も、迷わずケーブルカーを利用したものだ。 そんなわけで、初めて小楢山に登ったのも、もっとも楽な焼山峠からであった。でも、その後、あらゆる登路を歩き回った。これが、僕なりのバリエーションルート時代と言えるかもしれない。 ヒマラヤ登山史上、人工登攀が持ち込まれてからを〈ヒマラヤ鉄の時代〉と表現したのは小西政継さんだったろうか。僕の場合は赤ん坊を背負って山に登った期間を〈赤の時代〉と呼ぶことにしよう。 さて、その〈赤の時代〉における小楢山登山ルートは、迷わず楽な焼山峠からに決定した。天気具合もさることながら、初めての時以来もう十年もたって、記憶も薄れかけているので、懐かしさもある クリスタルラインと名を変えた杣口林道は琴川左岸を羊腸に高度をあげる。我が非力な十年物の軽ワゴン車は、時にはギヤをローに落として悲鳴を上げながら登っていく。 琴川上流にできるダムの工事のためだろう、いたるところで拡幅工事の最中である。この林道を使って随分多くの山に登った。大烏山や小烏山へもこの林道から適当に尾根を伝って達したものだ。その大烏山への道標が途中に立っていた。牧丘町で整備したのだろうか。いずれそこから登ってみようと思う。 焼山峠に車を止め、朝食を摂った。クリオを放すと、あっと言う間にどこかへ消える。 いわゆるクリスタルラインは、新潟の柏崎原発からやってくる大送電線鉄塔工事用道路の名残で、その工事が終わったあと、観光林道として整備したというのが正解だろう。多くの人が指摘しているように、県内各地の山岳景観をことごとく破壊してしまったのはこの鉄塔である。文明が入り込むと、こと山の中に限っていえば、前よりも良くなったなと思えることはほとんどなさそうだ。 文明がもたらす恩恵を享受しながらそれを批判するのは一種の自己矛盾ではあるが、それをわきまえた上で、冷や汗を脇の下に感じつつ批判するのは許されることだと思う。そうでなければ誰も何も言えなくなってしまう。 この整備にともなって、焼山峠にも広場ができ、大きな案内図が立てられた。初めて僕がここを訪れた時には、すでに舗装路が通じていたがまだしも風情があったと思う。小広くなって公園のようになった今は、片隅の子授け地蔵もなんだか眩しそうである。 渓を背負って歩き出す。十年前にはもっと広い防火線の中の径だったはずだが、草に被われ、まるで印象が違う。記憶のあやふやさばかりでなく、十年というのは決して短い月日ではないということだろう。もっとも先回は十二月の末で、草も枯れ切ってはいたが。 小さな登降が多く、けっこう汗をかかされる。こんなに沢山のこぶがあったかなと思う。山の形が変わっていない以上、これは記憶の薄れているせいである。 うしろから物凄い勢いでクリオが追い越していき、あっというまた視界から消える。 径が二手に分かれる。先回も歩いた一六五三メートル峰への径を選ぶ。これまた印象が変わって草深い。頂稜に出て一服。 紅白に塗り分けられた巨大な送電鉄塔が山と高さを競うようだ。それから垂れ下がる何本もの電線の向こうに柳平の牧場が見下ろされる。その上に見えるはずの剣ノ峰や遠見山など二千メートルを越える山々は雲にその頂上を没している。数年後には、この牧場もダム湖に沈み、景色も一変するのだろう。 自然保護云々と部外者は騒ぐが、現地の事情は無視できない。一体都会のどまん中で便利を享受している者に、山奥で不便を強いられている者の文明生活の向上を、自然保護を錦の御旗にして否定できるものであろうか。これまた脇の下に冷や汗を流しながらも、否定しなければならない時代になったと言わねばなるまい。しかし、それは経済的な向上が個人の目標であったり、幸福の指針であったりするうちは、おいそれと口にはしにくいことだろう。 ダム湖に沈む柳平を拓いた先駆者、若月雅久翁に『血と涙と汗』という著書があり、それを僕は横山厚夫さんの本で知った。たまたま甲府の本屋で見つけて買って読み、世の中にはなんとも凄い労苦があるものだなあ、と感じ入ったものだった。 柳平がダム湖に沈むことが決まってから、朝のテレビ放送で中継があって、僕もたまたまそれを見ていた。若月翁も元気にカメラに映っていた。 アナウンサーは「ダム湖に沈む柳平をどう思いますか」と翁にマイクを差し向けた。アナウンサーとしては「汗の沁み込んだこの地と別れるのは寂しい思いで一杯です」というような答えを期待していたのだろう。僕もそう思っていた。ところが翁の答えは違った。 「実に素晴らしいことです。嬉しいかぎりです」と断言したものだ。 「なるほどそうか」と僕は思った。これが明治からの日本の経済発展の根底にある魂だと思った。向上心のカタマリである。昨日よりもより良い明日を。それが経済面において日本を世界に冠たる国に押し上げてきたのである。そんな父祖の努力の恩恵を僕たちは残らず受けている。 翁の本によると、塩平から焼山峠を越えて柳平に通じる道路はこの開拓地の悲願であったことがわかる。今度は、その道路は完全な観光道路となって、ダム湖の付近にできるだろう観光施設に通じるのである。明治の翁には、牧畜の重労働よりは、一見華々しい観光業のほうが、子々孫々のためにはよほど魅力的に思えるのだろう。子孫繁栄のために営々として働いてきた翁を責めることなどできはしない。 子供の幸福を願わない親はいない。僕だってそうだ。渓を幸せにしてやりたいと思う。でも、幸せとは何だろう。親にだってわかってはいない。心か、物か、それとも金か。何かひとつではあるまい。それらは分かちがたく結び付いている。むしろ、経済的な向上のみが幸福の条件であると単純に信じていられるほうが、まだしも気は楽かもしれない。怠け者の詭弁かもしれないが、僕は経済の向上を幸福の第一位に置く人間ではない。それでも山に登る余裕は経済的な基盤があってこそと思うと、頭はこんがらがって心千々に乱れるのである。 答えなど出ないだろうな。でも山に在るとき、僕は幸せを感じる時が確かにある。しかし、それは僕の幸福であって渓の幸福ではない。いずれ渓が自分の心と手で、自分が幸せだと思えるものを掴み取ってくれればと願う。 ダムができて、そこにはスイス村なるものが出現すると聞いた。いったい日本の中に幾つの国を造れば気が済むのか。どうなるにせよ、そういった浅はかなネーミングや開発はよしたほうがいいと、これは堂々と言っておこう。 変貌が決定した景色をカメラに収める。あの大丸戸尾根はどこまで水に沈むのだろうか。合掌。 的岩の上で先ほどの径を合わせると、小楢山の西を径は巻くようにつけられている。猪が掘り返したのだろうか、径はことごとく耕されている。しばらくして東に直登すると、広い頂上の草原に出た。 こういう広い台地のような頂上は、さんさんと降り注ぐ陽光のもと、何組かの登山客が思い思いの場所で弁当でも広げているほうが絵になる気もする。 だが今日は誰もいない。半分以上葉を落とした木々が灰色の空の下、寂しくたたずんでいる。 三角点のところだけ木が切り開いてあって、甲府盆地方面が見下ろされる。その横には例の山梨百名山の標柱が立っている。 渓の一才記念の写真を撮るうちに富士山が顔を出した。そうなると、つい富士も入れて写真を撮ってしまうところが、我ながら単純で笑ってしまう。さすが富士山というほかない。 時間が早いので、幕岩まで行って昼食とすることにして頂上をあとにした。 幕岩の鎖場の登りにはさすがのクリオも悲鳴を上げていた。それを無理やり押し上げる。 遠望はきかないものの、雲に半分隠れた茅ヶ岳の手前に太刀岡山や黒富士、升形山が並んでいる。盆地には塩ノ山が盛り塩をしたようにちょこんと盛り上がり、案外名前の由来はそんな単純な形容からきているのかも知れないなと思ったりした。 こんな岩場では渓が動き回るので目が放せない。何となく落ち着かないままパンをかじった。渓は食事もそこそこに、そこらの岩をよじ登ろうとする。渓には高い方へ高い方へと行きたがるところが確かにあって、これは遺伝か、はたまた教育の成果か。いや失敗か。 それでも、気づくと一時間以上ここで過ごしていた。いったいここでの何度目の昼飯だろう。そう人の登らない山でもないのに、ここで人にでくわしたことはない。毎度貸切りである。平日登山家の特権である。また苦労してクリオを降ろす。岩場は下りのほうが恐い。渓を背負った僕は慎重に下った。まったく渓には迷惑な一蓮托生かもしれぬ。 帰りは小楢山は巻き径で通過。そのあと林の中にたたずむ的岩を見物しつつ往路を下った。結局ひとりの人にも会わなかった。 駐車場で帰り支度をしていると、車が止まって、登山姿の年配の数人の男性が降りてきた。大弛峠あたりからの帰りだろうか。そのうちのひとりに「赤ちゃん連れで山へ登ってきたんですか」と話しかけられた。山中稀な赤ん坊はいつも注目される。親が登山服姿であればなおさらだ。 渓の年を尋ねられ、今日で満一才になったと言うと、なんとその人も今日が誕生日だった。その年齢差六十余才。誕生日を同じうする山中の老若。その人は喜び、めでたいことが大好きなおめでたい僕も当然喜んだ。莞爾。 (その後、杣口林道から、文中にある道標に従って大烏山に登ってみた。初心者向きとは言い難い。途中にある道標にも疑問が残った。以前よりは登りやすくなったが、こんな山は登りづらくて結構である。) |