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            北岳(7月8日)               

山登りには、他の山を眺めて楽しむという一面もあって、甲州のように高い山の多いところは、殊に秋から春にかけての低山歩きに、それは欠かせない要素であるし、そういった山の少ない地方からみれば、実に恵まれた場所だと言わねばならない。

燃え尽きて終わろうとする色の秋、辿り着いた尾根からの思いもかけず姿を現した新雪の峰々。地上はなにもかもがくすんだ色の冬、ひときわ蒼い空には、キリキリと冷え込む冬枯れの木立越しに、凍てついた真白き峰々が映える。そして春、山吹色が、萌える新緑に混じる里山からは、ぼんやりした大気の向こうに、どこまでが空か、どこまでが山か判然としない残雪の峰々が眠気を誘う。

甲州各地の中低山から望むこんな光景は、何といっても「北に遠ざかりて雪白き山あり」白峰三山の連なりをもって嚆矢とする。

南アルプスとのなれそめは高校時代、白籏史朗さんの『山溪カラーガイド・南アルプス』を手にした時に始まる。この本をいったい何度読み返しただろう。白籏さんのいかにも熱血漢を思わせる文章は山に焦がれる高校生を鼓舞してやまなかった。憧れるだけで実践の伴わない、山の名前だけは知っている、やたらと頭でかっちになってしまった高校生はなんの因果かその白籏さんの生まれ故郷の隣町の大学に入学し、それはとりもなおさず南アルプスに登るには願ってもない環境といえたのだが、頭でっかちの上にさらに馬鹿になった大学生は、そんなことは杜子春やピノキオの如く忘れて、下界の享楽に身をやつすのだった。

山登りを再開する前、まだ学生だった妻と山岳ドライブを楽しんでいた頃、南アルプス林道を芦安村から広河原経由で早川町奈良田へ抜けたことがあった。途中立ち寄った広河原山荘にあった、白籏さんの署名入りの山の花の写真集を懐かしさにかられて買った時、山にも登らないで俺はいったい何をしていたんだろうと慚愧の念がすこし自分の中に芽生えたのを思い出す。


山登りを再開してから、さんざん白峰の姿をいろいろな山から眺めてきたが、日帰り登山専門の僕にとっては、それはあくまでも憧れの対象に過ぎず、いったいいつになったらあの頂きに立つことができるのかと溜め息をつくばかり。それどころか南アルプスのどのひとつの峰さえまだ未知だったのである。

そんな状態が七年続いた頃、赤岳を清里から往復して、日帰りでも三千メートル級の山に登れる自信がついた。その年は南八ヶ岳を片っ端から登った。その合間についに南アルプスにも足をのばすことになったのが、秋の高嶺だった。

この山は『甲斐の山旅・甲州百山』(実業之日本社)の中にある山村正光さんの文章で知った。「(縦走の途中に通過する山だから)この山だけ登る登山者は、恐らく皆無であろう」と書かれているのを見て、よし、一日をこの山だけに捧げようと茶目っ気を出したのだった。

白鳳峠の下の岩塊斜面や山頂からの、大樺沢を八本歯との間に食い込ませた北岳の姿は、まるで肘掛椅子に座る巨人を斜め横から見ているような趣だった。

その翌年の九月、夜叉神峠の入口に車を置いて、バスで広河原へ行き、白鳳峠から鳳凰三山を一気に縦走し、夜叉神峠までの長丁場を駆け下った。見えるべきものは全て見えるといった好天気の上に紅葉も盛りで、刻々と移り変わる白峰三山を常に右手に仰ぎながらの素晴らしい山旅だった。そのあとすぐ、北沢峠から早川尾根を縦走し、鋭く天を突く北岳の姿も見た。

そして、満を持した十月半ば、もうすっかりダケカンバの葉も落ちきった大樺沢を遡り、ついに北岳の山頂に立った。

静かな山頂での至福のひとときも忘れがたいが、八本歯のコルに飛び出した時、目の前に出現した間ノ岳の膨大な姿を忘れない。

東京を出て三日目にやっと山頂へ立ったなどという昔の話を聞くと、恥ずかしいくらいの日帰りインスタント登山だが、遠くの山から近くの山から八年間も眺めていたことは、それはそれで北岳に礼を尽くしたことにはなるだろう。もっと以前にだって登ろうと思えば登れないはずはなかったろうが、段階を経ることは山を見る目の熟成という点で、あだやおろそかにはできないのである。「物を感じるにも階段がある」と、かの田部重治さんも書いている。


次の秋の北岳は紅葉の盛りだった。休暇の取れた諏訪のN君も一緒に登った。N君に、下界では決して見られない色で飾られた日本第二の高峰の登山はどんな印象を与えるのか楽しみだったが、頂上ではもちろん歓声を上げたものの、下山後は、疲れのせいか、さほどの感興は湧いてきていないようにも見えた。だが、それはむしろあとになってしみじみと湧いて出てきたらしい。縞枯山の帰りにこのN君と会った話は前に書いた。その時、しきりにあの北岳は良かったと話してくれたのが、誘った方には嬉しかった。

その際にN君が、下諏訪町の諏訪大社下社の近くの道から北岳がよく見えたという話をしてくれた。僕は頭の中の地図で、北岳は仙丈ヶ岳に遮られて見えないのではないかと思ってそう言うと、N君は、そうかなあ、と承服できかねる様子だったが、これは僕の間違いだった。家に帰って、大きい地図で下諏訪から北岳に直線を引いてみたら、そのラインはちょうど北沢峠から双子山あたりを通る。となると、きっと現地からは、甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳の間に、あの端正な北岳の三角錐がそびえ立っているに違いないのである。

ある山に登ると、その山が他の山や麓から容易に捜し出せるようになることがよくある。それは親しくなったその山がこちらを呼んでくれるからだと僕は思っている。しかし、それはことさら山への想いが強い僕のような人間だけの現象かと思っていたら、さすが北岳ほどの山になると、誘われた時以外に登山をするわけでもなく、もちろん山を眺めるのが楽しみでもないN君のような人にもその現象を起こせしめるのかと感心した。そうでもなければ、諏訪からの重なり合った南アルプスの群雄の中から北岳を指摘するのはそう簡単なことではないのである。ま、これも僕ならではの都合の良い思い込みかも知れぬ。


明くる年は渓の生まれた年だった。二度とも秋だった北岳を今度は夏に登りたかったが、すでに妊娠七ケ月の妻には無理かと思い、それでは北岳を変わった方角から眺めてみようと小太郎山を選んだ。しかし、これはまったく妙な話で、小太郎山の日帰りは、むしろ北岳よりも辛いのは地図を見ただけでもわかる。

時間に余裕を持たすために、前夜に広河原に入って、車中泊をした。これが僕の身体のリズムを狂わしたのか、未だかつてない調子の悪さで、白根御池に青息吐息で辿り着くと、草すべりを見上げて中止か続行かしばし悩んだ。それでも、しばらく休んでいると少し回復してきたので、さて行くかと重い腰を上げると、早くもミヤマハナシノブ咲く草すべりの急坂を、元気すぎる怪しい妊婦は遠く先行しているのだった。

樹林帯を抜けるまで、数え切れないほど休みながら登った。そのうちに朝からずっと北岳を覆っていた雲も取れ、快晴といってもよくなってきた。それに気をよくして森林限界に出ると、今度はシナノキンバイのお花畑に出迎えられ、歓声を上げる。お花畑の中を縫うように登って小太郎尾根に辿り着くと、膨大な仙丈ヶ岳の方から、尾根に咲くハクサンイチゲを揺らして三千メートルの稜線を渡ってきた風がどっとばかりに吹いてきた。夏の高山の醍醐味ここに極まる。汗で肌にへばりついたTシャツを指でつまみ上げ、この風を通し、身体を冷やしていると、あな不思議や、これまでの不調はどこかに風と共に去ってしまった。なんとも霊現あらたかである。

それでも小太郎山までは多くの登降があり、さらにひと汗もふた汗もかかされた。ようやく頂上に着いてふり返り仰ぐ北岳は、まさしく、小太郎の前に大きな慈愛と威厳を持って屹立する北岳太郎そのものだった。北側からこの山に登ってくる一般路があれば、この素晴らしい父との出会いはさらに感動的になるはずだし、この富士山や南アルプス北部の山々の絶好の展望台はもっと人の訪れを得ることだろうにと思われた。だが、こんな素晴らしい立地条件にありながらこんなにも静かな山は、そのままにしておく方がいいのかもしれない。


初めて登って以来毎年のように訪れている北岳だから、赤ん坊がいるからといって登らないわけにはいかない。問題はその時期で、二度登った秋ではないほうがいい。真夏は仕事で無理としても、梅雨の晴れ間に休日が当れば、実行あるのみと思っていた。

山村正光さんの登山教室の予定が七月の始めの北岳だというのを聞いていて、休みがその日に合えば、渓が生まれたばかりの頃、茶店でお会いした人たちも多分大勢参加されていることだろうし、北岳山頂での再会もまた面白いと思っていた。果たしてその日が休みにあたり、予報も好天を保証していたので、好機到来とばかり勇んで広河原へ車を走らせた。

僕たちはいくら急いでも午前中には頂上に着けそうにないが、山村さん一行は前日に白根御池まで入っているはずで、早朝出発したとすれば山頂には昼前に到着していて、すでに下ったあとかもしれない。だが、天気も良いことだし、山村教室ともなれば、山頂でゆっくりワインでも開けていないとも限らない。

もう通い慣れた、大樺沢左岸の雪解け水で川のようになった径を登ると、崩壊地を避けて一旦右岸に沢を渡る。しばらくでまた左岸に戻るために沢へ下る。下りの時にはここが唯一の登りとなって、ほんのわずかの距離なのに、疲れ切った足で、いつもヒーヒー言わされる場所だ。

この冬、山梨県では未曽有の大雪が降った。その名残だろう、雪渓が早くも現れて、二股までは踏まれて階段状になった雪上の快適な歩行となった。単調だが歩きやすかった。

二股あたりは、七月とはいえ、まだまだ新緑といってよく、見上げるバットレスも緑に覆われて穏やかに感じる。

だんだん低くなっていく鳳凰の山々やその向こうに顔を出し始める八ヶ岳を振り返りながら登っていく。水量の多いバットレスからの沢を横切るといよいよ急登となって、最後は梯子の連続となる。右に豪快なバットレスの岩壁を眺めながらの登りだが、ひとつの梯子を登り切るたびに息をつく始末で、最初に登った時はスイスイと通過できたのにと思うと、背中の重荷のせいか、体力が落ちたのか、おそらくその両方だろうが情けない。

それでもようやく八本歯のコルに登り着き、雪渓を残した初夏の間ノ岳と対面した。渓を降ろして一服とする。大樺沢の急登をこなし、ここでの間ノ岳の眺めに、腰を降ろさない人はまずいまいが、人の多い時はさほど広いスペースでもないので大混雑となろう。幸い僕たちがここに登って来た時には、他の人がいたことはない。

双眼鏡で北岳山荘に続く径を見ていたら、山荘方向へ歩く、最後尾を半ズボンの若者が務める七八人の隊列が見えた。その「若者」こそ山村さんに間違いなかった。残念ながら頂上での再会とはならなかったわけだ。(後で聞いたところでは、山村さん一行はこの日、北岳の頂上などは割愛して、北岳山荘への巻き径でキタダケソウを観賞するという、世にも優雅なスケジュールであったらしい)。

間ノ岳を背景に母と娘の記念写真を撮って、再び高みを目指す。(この写真は珍しくよく撮れ、翌年の年賀状を飾った)。

頂上までは、何といってもまさしく百花繚乱といってもいいお花畑が凄かった。初めてミヤマオダマキにも出逢えた。本当はそのお花畑で、心ゆくまで花を愛でて時間を費やすべきなのに、不粋な僕たちは、頂上へと急いでしまうのだった。北岳を日帰りしようとすれば、こんな潤いのないことになる。

お花畑の中を主稜線に登り着くと、頂上は間近い。数人が憩うだけの静かな山頂に、渓をよっこいしょとばかりに降ろし、伸びをする。もう周りに高いところはない。山登りに来たのに、もう登らなくてもいいと思うと嬉しい。

頂上でみちのりは半分である。よくそう言う。だから体力を温存しておかねばならないと。でも、それができずに下山中に死んだ登山者のいかに多いことか。とにかく頂上に立つため、あとのことは考えない、もしくは考えられなくなる登山もあるはずだ。僕にそれがないことを寂しく思うこともある。

山頂には、ほっとして気の抜けたような喜びがある。あっけなく到着して肉体的に物足りない山頂もあるが、北岳ともなれば、もう結構、恐れ入りました、という感じになる。僕の体力では、この位がもう限度だろうと思う。そしてこれからそんな体力も失われていくに違いない。渓を背負って登れるのもいつごろまでか。体重の軽い今のうちしか色々の山を駆け巡ることはできないだろう。それでもこんな高い山に何もわからない赤ん坊を連れてきて何の意味があるのか。赤ん坊には何の記憶も残さないのに。これは親の勝手な想い出づくりでしかない。

でも心の隅では、この山の霊気を身体一杯吸い込むことが何で悪いことがあろうか、この神々の座の光景がまだ無垢でまっさらの脳髄のどこかに染みつかないことがあろうか、と思っている。

渓が物のわかるようになった時、街から、川べりから、あるいは他の山から、僕は渓がかつて赤ん坊の頃、この山の頂きに両親とともに在ったことを話してやろうと思う。その頂上の一点に僕達はいたのだ。僕達はそこで下界を見降ろし、快哉を叫び、飯を食い、笑ったのだ。

自分のかつて在った場所を色々な所から眺められるのは山以外にない。そして山は即ち頂上である。頂上が見えることを、その山が見えるというのである。御坂峠で、富士の頂上のみが雲に隠れているだけでも、それを残念がる人のいかに多いことか。

頂上が、より高く、より尖った一点であることをもって尊しとされるのは、それでこそ色々な場所から見つけだすことができるからである。しかし、それがどんなに低い頂上であっても、自分が汗水たらして登った頂上であれば、見いだしたとき、その親しみはいかばかりか。いわんや、北岳においてをや。

いずれ親が滅んでも、北岳は、渓がそれを想い出して山を見るとき、永遠の慈父母の如く彼女を見守ってくれるだろう。

そんな親の思惑とは関係なく、三千百九十二メートルの山の上でも渓はただ食欲の解消にせいを出すのだった。

女性ガイドに引率された中高年の婦人のパーティーが登ってきて、登頂の喜びに子供のようにはしゃぐ中を、はしゃぎ終えた僕達は、そろそろ下ることにする。いずれまた登ってくるはずの山頂だが、別れはやはり寂しい。

ひと気の少ない肩の小屋を通過して、小太郎尾根の分岐までは、南アルプス北部の名だたる山々を眺めながら歩く、実に快適なプロムナードだ。分岐で一服して、四囲の山々に今日のお別れを告げる。

いつもながら北岳の下りは辛い。こんなによく登ったものだと思う。ほうほうの体で広河原山荘に辿り着いて、渓をテーブルの上にどっかと降ろすと、その前には実に罪つくりなビールの自動販売機がある。対岸のアルペンプラザにはこの手の福祉施設はないから、これが素通りできようか。後髪どころか前髪をぐいぐい引かれてその前に立ってしまう。

下界では多少なりとも銘柄にこだわることもあるが、もうキリンでもシマウマでも、アサヒでもユウヒでも、サッポロでもアバシリでも何でもいい。そして、そんな身体の状態になっている時こそ、ビールが最もうまい時なのだ。それでも缶に直接口をつけて飲むような野暮はしないビールは喉に放り込むものだ。それでこそ旱天の慈雨となる。ザックからコップを取り出しなみなみと注ぐ。

妻と、半分寝起きの渓に、お疲れ様。そして北岳に乾杯。

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