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 登山家の自家撞着

「赤沼を湖水にして、蓼科山にさし昇る満月を手に掬ぶのは本当にいいだろう。だがその湖畔からジャズの音楽や流行歌のひびく俗悪な避暑地を夢みたもうな」(尾崎喜八『山の絵本』所収「たてしなの歌」より)

田舎に住んでいる私には、普段の生活に車が欠かせない。山登りをするときも移動はどうしても車を使うことになる。車に乗ると人は身体を使うことにケチになるから、たとえ山登りといえども車道がある限りの高いところまで車に登らせ、なるたけ歩かずに済ませようとする。

私の近所では、蓼科から霧ヶ峰や美ヶ原にかけてがそんな車登山に最適な山域である。かのビーナスラインをはじめ、隅々までハイウェイが通じ、たとえば標高1925メートルの車山に登ろうとして車から降り立ったところがすでに1800メートルだったりする。しかし、これでは文字通りの車山ではないか。

その車山から下界を見渡せば、山肌を雛壇に削ってリゾートホテルや別荘などの建物群が林立している。ひときわ賑やかなのは蓼科山の麓に光る白樺湖や、その一段上にある、冒頭の文章が書かれた80年後の赤沼、すなわち今の女神湖周辺である。

尾崎喜八が、そうなってくれるなと書いたとおりの避暑地になってしまったこれら人工湖の横を、いったい私は何十回通っただろう。しかし、湖畔に降り立ったことは一度もない。それは私の中に、尾崎同様、このような避暑地を俗悪だと思う気持ちがあるからに違いない。だが一方で、それを我ながらかなり勝手な言い草だとも思っている。  

観光開発と無関係に山の上まで快適にドライブできるはずはない。限られた時間の中で目的の山の頂上まで登ってこられるのは、山を崩して道路を整備したおかげではないか。

それに私自身が八ヶ岳の反対側の麓で商売をしている。森を切り開いて建てられた家で客をもてなしているのである。大通りに一歩出れば、大げさで派手な看板があり、俗悪に感じる建物もある。白樺湖や女神湖ほどではないにしろ、それは観光地の規模の問題にすぎない。五十歩百歩である。

だいたい何が俗悪で何がそうでないかの基準などなく、各人の感じ方の違いでしかない。そもそも人というものは、すきあらば自分を少しでも上に置いて他人を見下したがる。ものごとを俗悪と感じるのも、人のそんな性向によるところが大きい。もちろん私にもそれが潜んでいて、他人の行動や考えに眉をひそめさせるのである。

また、批判というものは、対象が大きいほど、それに対立するというよりは寄り添っていることが多いもので、その最たるものが文明批判である。つまり文明批判は、批判する側が文明にどっぷりと浸かっていて初めて成立する点で前提に矛盾をはらんでいる。

近代登山発祥以後の、いわゆる山の文章に、たとえば森が伐採によって失われたり、山が造成で崩されたり、静かだった場所がにぎやかな観光地になってしまったりなど、人が自然環境を変えてしまったことについての批判や嘆きをみることが、ことに時代が新しくなるほど多い。

辻村伊助が大正初年の『山岳』で上高地の俗化を嘆いたのが、そんな文章の嚆矢だと思われるが、これらも自家撞着の一種であることは、近代登山というものが近代文明の申し子であることを思えば明らかである。文明によってもたらされた経済生活から登山は一歩たりとも外へ出られはしない。明日のパンが買えなくてなんで山なんぞに登っておられようか。

文明は自然の脅威を克服しようとし、まず都会を自然から隔離した。ふだん自然とかけ離れた生活をしているほど、人はそれを希求するようになるから、当然、都会ほど登山趣味の人が多い。山には登らないまでも、休日には都会を離れて自然の風物に触れようと、観光地へと車が行列する。

自分の周りにない新鮮なものを味わうのが旅だから、都会の登山家は、日常では何とも思わない看板や建築物が、田舎の自然の中にあると俗悪と感じる。都会生活はますます便利で快適になってほしいが、未開なところはいつまでも未開なままで、自然は人の手が加わらないままで、田舎の人間はいつまでも純朴でいてほしいと切望する。

なんと手前勝手なことだろう。むろん、そうは問屋が卸さない。未開地だろうが田舎だろうが文明は容赦なく入り込み、登山家はそれを俗化したと嘆くことになったのである。

今や日本中の山奥や津々浦々まで文明は浸透し、ことに情報網の発達はどんな地方の人間をも都会人に似たものにした。そうなると矛先は海外へ向く。未開地を目指してツアーが組まれる。すると、たとえばネパールのこの村は、かつてはもっと素朴だったのにと言い出す始末である。

私はこの世には言行一致でありたくともできないことが多いと思っている。自分はあくまで言行一致だと言い張る輩なら、むしろ信用しない。山を崩して得たコンクリートで建てたビルの、空調の行き届いた部屋で、武甲山の行く末を憂い、原発の是非を考えたってちっともかまわないと思う。ただ、そこには照れや忸怩たる思いが必要だ。人間は結局、人間の都合でしか物事を考えられないと知るべきである。

私は尾崎喜八や辻村伊助の古い文章を読んで、無邪気なものだなあと苦笑するが、自然保護や環境保全が時流にあうと見るや、少しの照れもなく、ここに正義ありと声高に叫ぶ論者が多くなったり、「エコ」などという怪しげな言葉が大手を振ってまかり通るような昨今の風潮を、無邪気というよりはうさん臭いと眺めている。  

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