週末は熱狂の山

ビートジェネレーションの寵児ケルアックの『路上』に出てくるディーン・モリアーティーの破天荒な青春に共感はしても、彼のような生き方を受け入れる勇気もなければ楽しめるとも思えない。そんな当時の若者の専売特許ともいえる不完全燃焼の日々を癒してくれるのが山だった。そこには『路上』の世界にも通じる、分かり切った日常への決別と目も眩むような自由が待っている。かくして日頃の生煮え状態の憂さを晴らそうと、週末がやってくるたびに雪と氷と熱狂の中に飛び込んでいくあの頃の私だった。

クライミングの世界に入り浸っていた1970年代の半ば、日本の登攀史上に数々のドラマを生んだ谷川岳一ノ倉沢の滝沢をめぐる不可能神話はすでに過去の話になっていた。冬の本命とされる第三スラブは何回か登られていたし、残されていた第二スラブの初登も相次いだ。それでも、アプローチに労することなく手短に国内屈指の氷雪登攀を味わえる滝沢スラブは、若いクライマーたちにとっては憧れの挑戦対象だった。

















滝沢スラブの全景。雪におおわれたスラブ群の下にY字河原の雪形がよくわかる。1974年3月初めの週末、烏帽子奥壁から撮影。終日の晴天で気温が上昇し、雪解け水のシャワーで濡れ鼠になった。滝沢のデルタのスロープでは、怖れを知らぬディーンたちが尻セードに興じていた天国のような一日。山から帰った週明け、新聞で第二スラブの冬期初登攀を知った

     
私と仲間総勢5人の当初の目的は、その頃アイスクライミング・ルートとして人気の高かった幽ノ沢左方ルンゼだった。しかし、前日、ルートの下見に旧道を歩いた折に見た一ノ倉沢の滝沢は、2月まだ半ばというのに早くもデルタと呼ばれる巨大なデブリが下部の大滝を埋めて本谷の谷底とつながっている。その上にひろがる広大なスラブ帯も一面の雪におおわれ、いつでも来いと手招きしているかのようだ。どうしようか…、と問われるまでもなく、すでに左方ルンゼは私の心中にはなかった。またとない絶好のチャンスが目の前に転がり込んできたのだ。

前年、二ノ沢右俣で、雪崩が通り過ぎた跡をたどる胃が痛くなるような登攀を強いられて以来、この手の山登りはもうやらないつもりでいたが、コンディションに恵まれた滝沢を目の前にすると、そんな決心はどこかへ失せていた。雪崩の危険にさらされた登攀ルートは、好条件でも不確定要素を完全に排除できない。ある種の割り切りは必要だ。ゆえに安全圏にたどり着いた刹那の解放感は目も眩むばかりで、心理戦にも似たこの種のクライミングは、薬物中毒のように病みつきになるのである。

ルートの下見から帰ると、私たちは昼間から登山指導センターで仮眠をむさぼり、翌朝5時前にはデブリの下に立っていた。滝沢のすべての雪崩が収斂するもっとも危険な部分を、凍り付いた暗いうちに一気に駆け登るつもりでいたのである。ところが、ヘッドランプに浮かび上がったデブリは真ん中にぽっかりとトンネルのような大穴が開き、とても登れたものではない。それでも、よく観察すると滝沢リッジ寄りの急なスラブに氷雪が張り付いており、これに仲間のひとりが取り付いた。

氷は薄く、ピックが当たると火花が散る。それでも着実に登っていくライトの主を追って、あとの者がつづく。ほとんどビレイもとらずに、5人が真っ暗な中を数珠つなぎで登る、などというのは普通ではあり得ないことだが、こんな場所で仲間が登っていくのをのんびりと見守ってはいられない張りつめた空気が私たちを支配していた。

滝沢右岸に展開するスラブ群の扇の要にあたるY字河原のスロープに全員が顔を揃えた頃、氷雪をまとった大伽藍の荘厳な夜明けが始まった。ここで滝沢の本流とわかれるので雪崩のリスクは半減する。とはいえ、壁の上部に日が差す前には安全圏にたどり着いていなければならない。凍てついた岩壁群の素晴らしい眺めを楽しむいとまもなく、雪におおわれた第二スラブへ入っていく。滝沢スラブの中央に位置するこのルートは、日の差す時間が最も早いことから怖れられ、第三、第一スラブともすでに多くのパーティーが登っていたにもかかわらず、劇的な二パーティー(ソロの長谷川恒男と岳志会のふたり)の同時初登以降、登られたという話はない。

 1977年2月中旬の第二スラブ。雪に覆われたスラブの中ほどを同時登攀で一気に駆け登る

アイゼンの前爪が岩に当たるほどの着雪だが、厳しい冷え込みのおかげで体重を支えるには充分だ。コンディションが変わらぬうちにと、ビレイを省いて同時登攀で時間を稼ぐ。左右を低い肋稜に挟まれ浅いU字溝を形作っている雪のスラブは、少し前までは神話の中にあった。高揚感に包まれながら長大な雪壁を駆け登ってスラブ帯の最上部に達する。

すぐ上には滝沢スラブの上端を帯状に横断する急峻な氷雪壁が立ちはだかっている。初登者たちはここからドーム右稜へトラバースしているが、私たちは第三スラブ寄りの浅い凹状部に突破口を見つけた。全行程を通じ唯一のしっかりとしたアンカーを打ち込み、核心部に取り掛かる。凍り付いた草付壁にビシッとピックが食い込み、打ち付けたピッケルの頭部からプルルと小気味よい振動が腕に伝わる。股間に白い滝沢スラブを見下ろす、それは胸のすくようなピッチだった。

            スラブ帯最上部の雪壁をトラバース。核心部が頭上に迫る

気が付けば眩いばかりの光の中。安全が約束された時間帯はいつか過ぎている。傾斜が落ちると息つく間もなく雪質が激変した。凍った草付に乾燥剤のような粒状質の雪が載って、一歩踏み出すごとにとめどなく崩れ落ち足をさらう。腫れ物に触るような息の詰まる数歩のあと、ようやくしっかりとしたダケカンバの幹にランニングをとることができた。後年、この辺りで起きた吉尾弘さんの事故も、あのアリ地獄のような雪が関与したのだろうか。

ドーム右稜を懸垂下降で日の陰ったAルンゼ側にまわり込むと、再び安定した雪面に出る。稜線はもう目の前にある。張りつめていた糸が緩み、いつになく饒舌になった仲間のひとりから、いつものフレーズが飛び出した。「もうこんな山登りからは足を洗おうぜ !」

登攀開始から5時間余、熱狂の時は瞬く間に過ぎ、束の間の私の『路上』は終わった。


                 脚下から滝沢本流へ切れ落ちる氷雪壁  

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