夏至の山 悪沢岳


ぬる湯ざんまいの季節がやってきた。ひと汗かいたらザブン、買い物から帰ったらザブン、食事の前にザブン。寝る前にザブン。風呂場に入り浸っているうちに、一日に何回温泉に浸ったのか記憶も定かでなくなる。仕事はといえば床掃除や土いじりにネコの世話、時々食事の支度ぐらいだ。こんな生活ばかり続けていたら、すぐに老け込む(とっくの昔に、との声も)と外野がうるさい。

ジジイになるのは今更怖くもないが、感性が衰え、日の出の時刻や明日の天気にさえ興味がなくなってしまうのは情けないことだ。安逸をむさぼる日々に変化をつけようと、自分を奮い立たせて月に1度か2度、裏山の林道と伊東市郊外の奥野ダム湖の周回コースを続けて走る。夏の高温下の30`走は厳しく、こんなにきついランニングは、先々そう続くものではないな、と思いながら。

それでも何かが足りないと思うのは、自分が山登りの世界に片足を突っ込んでいるからだろう。いかに厳しいランニングとて、下界では人間社会のコントロール下に置かれる。しかし、山はそうではない。人里離れた自然界でしか得られない底抜けの開放感が、私を山にいざなうのだ。

まもなく夏至がやってくる。1年でいちばん日照時間の長いこの時期は、約16時間にわたって灯火なしに行動が可能となる。心の片隅にあいた小さな穴を埋めるべく、仲間とふたりで南アルプスの秀峰悪沢岳へ、山梨県側の山麓田代川発電所から転付越えで日帰り往復を試みた。

転付峠の登りから見た梅雨空の富士山


ガイドブックのコースタイムでは全行程約25時間。あの長谷川カップとほぼ同じだが、距離はその6割の約40キロという短さが、コースの特徴をよく表していて、コース標高差は復路の峠越えを含めて3470メートルに達する。
      
           悪沢岳の頂稜を行く。まだ6月、残雪は多い

  

6月17日13時20分。未明の出発から9時間後、私と仲間は高曇りの空のもと、岩塊が積み重なった悪沢岳の山頂を踏んだ。先が長いことを意識しすぎて控えめのペースで歩いた結果、途中からペースを修正しにくくなって予定より1時間遅れの時刻となった。しかし、この1時間がどれだけ貴重なものだったかを、あとになって思い知らされるのである。

マンノー沢の頭から大井川本流へ。足にきそうなものすごい急下降だ

あわただしく下山に移ったが、下りとはいえ3000メートルを越える標高差だけに、飛ばし過ぎると足に来そうで、駆け下りるわけにはいかない。5時間20分かけて登った尾根を3時間20分で下り、16時40分、大井川を渡る。ちょうど梅雨の最中、いつ降り出してもおかしくない空模様が、ここでとうとう雨になった。

出発点の田代川発電所へは、転付峠まで標高差600メートルの登り返しが待っている。残りあと10キロ程度の距離だが、マラソン同様30キロ地点。ここからが正念場だということは、ふたりともよく分かっていた。集中心を失わないように努めたおかげで、18時、ガイドブックの下りタイムより早く峠にたどり着くことができた。

日照時間が長い時期とはいえ、東に向いた谷の日暮れは早い。ジグザグの下りから谷底に降り立ち、内河内の流れを数回渡ったあたりで足もとが見えにくくなった。これから先は狭い廊下に桟道がつづき、夜間行動は避けたい行程だった。            

内河内の桟道を行く。('07白峰南嶺北部縦走のときの写真)

覚悟を決めてヘッドランプを点け、降りしきる雨の中、甲高いシカの叫び声に追い立てられるように危なっかしい桟道に入る。抜け落ちた踏み板の間から、白く泡立つ流れがのぞいている。傾いた足場はぬれて滑りやすく少しも油断できない。足場が離れている所は、往路ではぴょんぴょんとリズムに乗って飛び移ったりしていたが、ヘッドランプの薄明かりではそうもいかない。慎重に足探り、手探りで進むうちに時間はどんどん過ぎていく。

雨足が強まり、いつか谷の水量が増してきた。白く煮えくり返った飛沫が足もとを洗う。視界の悪さにあせりも手伝い、2度も路肩を踏み抜いたが、一瞬の出来事に無意識に身体が反応し、体勢を立て直す。それを驚いたり、無事を喜んだりする気持ちの余裕もなかった。

いつ果てるともない逃避行のような下山も、道が河原から山腹へ転じてようやく終わりを告げた。ぬれて身体に張りついた着衣をはぎとり、車の中に飛び込んだのは20時50分。

暗夜に雨のおまけがついた16時間30分にわたる連続行動。ともかく南アルプスの中核にそびえる悪沢岳を、私たちは山麓から日帰りで往復したのだ。しかし、それからのなんと厳しい家路だったことか。
                
                         (2006・6・22)
               
                  悪沢岳頂稜の丸山付近から見る赤石岳


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