レ・クルト 僥倖の山

海津正彦さん翻訳によるママリーの本が出たと聞いて、さっそくアマゾンから取り寄せた。若い頃読んだ同書の訳文は、失礼ながら翻訳者の名のごとく硬かったと記憶しているが、新訳は時を経たワインのように角がとれ、血中アルコール濃度の高い読者にも大変心地よい読み物になっている。

改めて驚かされるのは、ここに書かれている数々の登山が、どれも縄同様のロープのほかにはたいした確保用具もなしに鋲靴で行われていたという事実だ。今の水準からすれば話にならないくらい貧弱な装備で挑んだプラン針峰の北壁など、本書では少ししかふれられていないのだが、アルプスの登攀史上極めて先進的な試みとして評価されている。再版の機会があれば、その登攀の仲間のひとりエリス・カーのレポートも併せてぜひ収録してもらいたいものだ…、などと勝手気ままに読み進んだところで、とある写真に目がとまった。それは「小さな峠…」という章で、レ・クルトのアルジャンチエール側をとらえたものだった。

← A.F.ママリー『アルプス・コーカサス登攀記』
  海津正彦訳 東京新聞出版局より(写真 中野融)


編集上この写真がここで扱われるにふさわしいか否かはさておいて、私にとってクルトは忘れられない体験の山だった。写真の正面左に日を浴びて稜線からストンと北東壁が切れ落ちている。ベルクシュルントからの標高差約800メートル、急なところでも傾斜50度。近年、コンディションのよい時には冒険スキーヤーの挑戦対象にもなっていて、ヴェルトからトリオレに至るアルジャンチエール氷河北面の名だたる氷壁群の中では、もっともお手ごろな登攀ルートとされている。

登攀時のレ・クルトのアルジャンチエール側。正面は北壁、左側が北東壁。雪が落ちて黒々とした氷が露出している →


しかし、いくらお手ごろとはいえ、壁の表面についた雪が消え、下層の万年雪が露出してくると、とたんに勝手が違ってくる。

その時、私たち3人は夜明けの薄明かりの中、漏斗状をした壁の下半部をのろのろと登っていた。傾斜は50度ほどだが、つるつるの青氷でビレイをとらずに登るにはちょっと不安なコンディションだった。フォローは間隔をおいて2人同時でもツルベで登るよりはるかに効率は悪い。こうしたルートでは、スピードが重要なことは百も承知のつもりでいたが、実際のところ理屈の上でしか理解していなかったのだ。

見上げる北東壁の上部は灰色をした氷から雪の白へと変わり、黒く縁取られた頂稜へとつづいている。あの色の変わり目を越えれば、私たちは単調で疲れるアイゼンの前爪登りから解放され、3人同時に行動できそうだった。

北東壁の登攀。ふくらはぎが悲鳴をあげそうな前爪の登りがつづく
  
色の失せていた空がしだいに青みを帯び、やがて曙光が稜線を赤く染めた上げた。ちょうどその時だった。芥子粒がはぜるように稜線に黒い粒が音もなくばっと散り、見る間に500メートル下にいる私たち目がけて降ってきた。荘重な朝のしじまは破れ、響き渡る轟音とともに間断なく落ちてくる無数の岩塊。至近で氷面をえぐって砕け散る岩片はどれもこれも畳半分ほどもある。空気を切り裂く不気味な音ときな臭い匂い。たちまち辺りは修羅場と化した。
                



アルジャンチエール小屋のテラスから見る夕映えの山々。右にトリオレ針峰の北壁、左はモン・ドラン

この1975年夏のモンブラン山群が、例年になく雪が少ないことなど、アルプス初登山の私たちは知る由もなかった。

アルジャンチエール小屋の小屋番から「ボエ」はどこかと問われ、トリオレと答えると、巨大なセラックが危険な状態で今は登れないという。クルトに転進しようかとも思ったが、初っ端から急峻な北壁に挑戦するほどの勇気も経験も私たちにはない。ならば北東壁で小手調べしようと小屋番に告げた。

彼は目覚まし時計を私たちに与え、これで零時に出発するようにといい添えた。しかし、私たちはシンプルなその様相に似合わず刻々変化する氷の登攀をなめてかかっていた。かなりの部分はビレイなしに行けるだろうと踏んでいたから、そこまで早い出発は無用と1時間遅れで小屋をあとにしたのだった。たしかに小屋番が勧めたように定刻に出ていれば、今頃は落石の通路をすり抜けて、左の雪の肋稜からこの派手な自然の営みを面白おかしく見物していたことだろう。

しかし、今、私たちは決定的な場面で慢心のつけを払わねばならなかった。落石が集中する氷壁の只中でロープに結ばれたまま3人が上下に分かれて釘付けになっていた。出し抜けにロープの上端にいたKが、かすめた岩を避けたはずみに滑落し、すぐ目の前まで落ちてきた。回収を楽にしようと半分しか埋めていなかったスクリュー式のピトンが真ん中でぐにゃりと曲がり、滑落のショックを吸収してくれた。時を同じくして右の側稜を挟んで隣り合う北壁でも、地鳴りのような轟音とクライマーの悲鳴が響きわたった。

奇しくも同じ年の冬、谷川の二ノ沢左俣大滝で雪崩に襲われたときと同じ顔ぶれだった。あの時もKがリードしていた。急な氷壁にホールドを刻んでいる最中に雪崩が起きた。彼はバルジ状に張り出した氷の下に身を縮め、落ちてくる氷塊で頭をぼこぼこにされながらもかろうじて無事だった。滝下で彼をビレイしていた私とIは、頭上を飛び越えて行く大量の雪の飛沫で胸まで埋まったものの怪我もなく難を逃れることが出来た。Kはつくづくついていなかったが、取り敢えずひどい怪我もなく3人が顔を揃えられたのは幸いだった。

二ノ沢の雪崩は通り過ぎるのをじっと待っていればよかったが、今ここに留まっていては、命がいくつあっても足りない。3人を氷壁に固定しているアンカーを撤去するのになんの躊躇もなかった。一蓮托生のリスクはあったが、ハーネスとじかに結んだロープをとく寸秒のゆとりもない。落石の集中砲火にさらされながら、左上の肋稜へ向かって3人同時に行動を開始した。こんな場面でアックスを利かせ過ぎると機敏に動けないが、気が急いているから容易なことではない。それでも、左へ40メートルも氷壁をトラバースできれば、安全圏内に逃れられるのだ。

私たちはまるで運試しのような一瞬一瞬を生きていた。3人のうちのひとりでもスリップしたら、落石を受けたらなどといった雑念も、足下からすっぽりと切れ落ちた高度感も頭から追い出し、己を信じ仲間を信じて前爪のフットワークとアックスのひと振りひと振りに集中した。

2度の窮地を切り抜けてきたKに今度はつきが回ってきたのだろうか、それとも落石のほうが私たちを避けてくれたのか、いつか騒然とした地帯を抜け出していた。身の安全が確かなものとなってくるにつれ、さすがに3人の置かれている危うい状況が空恐ろしくなってきた。誰言うとなく、ハーネスに結んでいたロープをといた。こんな場面を想定しなくとも、コンディション次第でビレイのとり方が変わる氷雪のルートに臨機応変に対応するなら、多少の難はあるにせよカラビナを介してハーネスにロープを結びつけるべきだったのだ。

苛烈な一難が去ったとはいえ、まだ流れ弾のような岩片は飛んでくるから油断はできない。しばらくは3人ともソロの態勢でいってみよう、と一歩踏み出した時、足の筋がひきつりそうになっているのに気がついた。

「アドレナリンがすっかり切れちゃったよ」。取り付きのベルクシュルントでロープを結び合って以来、初めて私たちは笑みを交わした。

後年出会った座右の書『アイスクライミング』の中で、シュイナードは述べている。「初心者が大氷壁の登攀に必要な技術を身につけるまでにはそれほど時間はかからないが、登攀を安全にやりとげるには長年にわたる試行錯誤の経験が必要である」と。

ともあれ、未熟者たちがロープのビレイもなしに集中を切らすことなく動き続けられる時間は限られている。それから3時間後、雪と氷のミックスした最後の数ピッチを、再びビレイをとりながら登る頃には、明け方の騒動など忘れ去ったかのように山は静寂を取りもどしていた。
                            (1975・8)

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