異界 日向八丁尾根
 
大ギャップから烏帽子岳に続く標高2400メートル付近の尾根を行く海藤嘉一。丈の高いハイマツのジャングルの中をしばらく歩いたが、すぐ下の中ノ川側のシラビソ林にかすかな踏み跡があった。(2006年10月下旬)

「異界」といえば山岳信仰を思い浮かべる。修験道の山では、馬返しは日常と非日常の結界、そこから上は聖地=ご神体である。水浴びをして心身の穢れを拭い、六根清浄を唱えながら山頂をめざす。それが本来の修験の山の姿だった。ところが実態は文化遺産に名を借りた商魂丸出しのご都合主義がまかり通り、正統な登山のプロセスなど話題にも上らない。とりわけ、問題外と言ってもよいのは、五合目から七合目にかけての観光乗馬の営業である。

若いころ富士登山競走の折に、青息吐息で先行者を追っている私の鼻先に客を乗せた馬がポロポロ、ボタボタと糞を落としていく。文字通り閉口し、酸欠になりかけながらかろうじて抜き去ると、あろうことかその先にもう1頭、これまた歩きながらポロポロと…。

思い出すのも腹立たしく話が本筋をそれてしまったが、日向八丁尾根も駒ヶ岳信仰の一翼をになう修験の地。写真の風景に出会うには、大岩山の大ギャップを渡るか鋸岳の稜線から烏帽子岳を越えて来なければならず、いずれにしても一般の登山者には簡単なことではない。とくに大岩山からの大ギャップ越えにはロープが必要で、八ヶ岳の横岳稜線の鎖場のように手摺に頼らなくても通過できるような場所ではない。一般登山者にとっては大岩山が日常と非日常の結界、その先は登山コースの次元がまったく違う「異界」だった。

それが近年、大ギャップの大岩山側がロープと梯子によって整備された。『山日記』1972年版までは、このコースが登山行程表に明記されていたから、もとのコース状況に復したともいえる。難所が安全に通過できるようになれば、大多数の登山者には大きなメリットだろう。その一方で、整備される以前のコースが持っていた冒険性が失せてしまったことは確かで、ある程度山慣れた人には残念なことである。整備される以前の大岩山からの下りは、一度下ってしまうと容易には引き返せない類のものだったから、単に技術が必要というだけのことではない。束の間ではあったが、そんな異界を体験できた私は幸運だった。

それにしても、絵に描いたような垂直分布の逆転を示す光景だ。南アルプス北部で標高2400メートルといえば、まだシラビソ林が山体を覆っている。岩塊地ゆえの土壌の貧しさが高木の侵入を阻んだのだろうか。一般に南アルプスでは2600メートルから2700メートルにかけては高木が生存の限界に挑むことで現れる様々な植生景観が興味深い。その一方で、道のない山ではハンノキやシャクナゲ、ナナカマドなどといった低木のジャングルに苦しめられることが多いのもこの高度帯である。


鞍掛山から大岩山へ続く針葉樹林の尾根。シラビソやトウヒ、カラマツなどからなる見事な林相。

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