| 体力の使いみち 鹿島槍ヶ岳天狗尾根 |
| 1970年代までの私と80年代以降の私とでは、山への関わり方がかなり異なる。別人になった転機について少しふれてみたい。 「ヒドン・ピークに出発する直前にフィルネスと、ボルツァーノ・エネージェン間のトレーニングコースを走ってみて満足すべき結果を得た。標高差約1000mを所要時間35分。自信がわいてきた…」(ラインホルト・メスナー『挑戦 ふたりで8000メートル峰へ』)。写真の、トレーニング姿で走るメスナーの顔が笑っている。信じがたいレベルの高さ。 だが、かつての山仲間のひとりに、彼なら同じ程度のことは可能かもしれない、と思わせる男がいた。学生登山界のエースのひとりで、ずば抜けた体力と飾らない人柄がみんなから慕われていた。山では彼についていくのは大変で、早くロープを使う場面がやってこないか、といつも思ったものである。彼我の差が余りに大きいと、努力して追いつきたいという願望も生じない。歩いていること、それ自体が楽しいという彼の言葉は、いつまでも私の耳に残った。 持久系のスポーツ自体が好きではないし、苦手だった。そんな人間がよりによってランニングにのめり込んでしまうのである。いったい何があったのだろう。たしかに山では体力がものをいうが、そのためのトレーニングまで深く考えたことはない。思い当たるのは、テクノロジー社会の進展に抗うように台頭してきたエコロジーという名の世界観。 1960年代後半から70年代にわたって、流行り病のように一部の若者の間にエコロジー・ムーブメントが蔓延した。私の場合は一過性に止まらず、物質文明への不信や嫌悪となって後の生き方にも様々な形で影響を与え、現在に至っている。世は経済成長の安定期、ドロップアウトしても生き直せる時代だったが、そんな勇気もなく、自己矛盾を抱え込んだままもがいていた。この話は長くなるから、これ以上はふれない。ともかく、ただ走っていれば悩みが解消できるわけではないが、ひたすら走った。例えば、休日の午前中は近郊のハイキングコースを駆け回り、午後はロードのランニング。それがいつか平日の朝も昼もとエスカレートした。 気がつくと、持久運動であふれる乳酸の海の向こうに、探し求めていた未知の世界がおぼろげながら見えてきた。1年近く続けたランニングで心肺機能は一新、運動性の徐脈、いわゆるスポーツ心臓を得ることができた。同じことがより少ない心臓負担で可能になり、さらには脈の戻りも速く、きつい運動も少し止まれば楽になる。歩いていること、それ自体が楽しいという、前出の彼が語っていたのは、このような世界だったのか。 身体以上に変わったのが山への意識。熱く関わってきた登山のある部分は、エコ的な世界観とは合い入れない。地の果てや高峰、エイドクライミングに関する書物や資料を処分すると、呪縛から解かれたように身も心も軽くなった。私の探しものは外界にはなく、実は内にこそあった。視界が一気に開けた。 春の鹿島槍は、私同様に身体を作り直した仲間との記念碑的な山行となった。4月上旬、積雪量は冬と変わらないが、日照時間は飛躍的に伸びている。鹿島の集落を夜明け前にたち、大谷原を経て荒沢の出合で夜が明けた。天狗尾根は途中から雪が緩んで苦労したが昼過ぎには北峰に登頂。国境稜線を南下し、赤岩尾根を下って夕刻鹿島に帰着。全行程15時間、貧弱な装備で身軽に山を駆け回る満足感。私の新しい山登りはこうしてスタートした。 |
![]() 天狗尾根、第一クーロワール上の雪稜を行く海藤嘉一。1981年4月上旬 |