淵ヶ沢山(3月31日)
渓が生まれて三週間たった頃、山村正光さんが、講師をしておられる〈朝日カルチャーセンター立川〉の山登り教室の生徒さん七名と、旧御坂峠から縦走してきて、翌日は三つ峠へ登る予定で茶店に一泊された。そうなれば夜は宴会ということになる。僕もいきがかり上参加する羽目になった。山村さんが僕を皆さんに紹介してくださったとき、なんとそのなかに僕の名前を知っている方がいた。教室で山村さんの右腕として庶務にあたっている小笠原かず子さんである。というのも、何回か僕が山の紀行文を書いたことのあった『遊歩百山』(森林書房)という季刊の本をたまたま読んでいて、名前を覚えていてくださったというわけだ。
初対面の人が自分を知っていたとはそれこそ初めての経験で、あんなふざけた文章でも読んでくれて覚えていてくれる人がいるんだなあと思うと、嬉しいやら恥ずかしいやら従業員だという立場も忘れて酩酊してしまった。
次の日、僕がたまたま休みだったので三ツ峠まで御一緒した。これが山村さんとの初めての山だった。頂上でのワインを抜いての宴も楽しく、天候に恵まれたこともあって、最高の顧問による山座同定に時を忘れた。
その時に、教室の皆さんが十一月の末に一泊二日で催す山村さんの古稀祝いの山行に誘われた。
一日目淵ヶ沢山に登り、薮の湯で一泊、翌日旭山に登るというスケジュールだった。連休がとれないので二日目の山行は無理としても、初日に参加して宴会後一泊して早朝帰るぶんには可能だったので、せっかくの機会でもあり、他ならぬ山村さんのお祝いであるのだからぜひ参加させてくださいとお願いした。
実は、一日目の淵ヶ沢山が未登だったのも参加したかった大きな理由だった。望月達夫.岡田昭夫共著『藪山辿歴』(茗溪堂)で知って以来気にかかっていた山だったのである。
当日は朝から快晴だった。集合場所の韮崎駅前には続々と山姿の人々が集結し、いまさらながらに山村さんの人脈の広さをうかがわせた。宿のバスが迎えに来ており、一行はそれで精進ヶ滝林道を見返り峠へ向かい、そこから淵ヶ沢山を目指す算段である。そのバスに乗らないで麓から淵ヶ沢山を目指すのは僕だけということになってしまった。どうも孤独に藪山を登るのが何より好きだと思われているらしい。
ともあれ登山口に車を走らせる。武川村の新奥から尾根に取りつくのだが、この手の山はその取りつきがわかりにくい。それは新しい車道ができていることが多いのが一因で、地図が少しでも古くなるともういけない。この時も僕の地図にはない舗装路が新奥から黒沢へ越しており、あまつさえ、この辺りが淵ヶ沢山に続く尾根じゃなかろうかという地点からは林道が延びている始末だった。
とにかくその林道を辿ればなんとかなりそうだと目星をつけて、車を捨てて歩き出した。するとさらにその先で林道は左右に分かれる。ここは右をとる。地図を見ながらこの尾根が怪しいとばかりに藪に突入。しばらく登ってなんとなく目算あやまたずという気はするものの、もっとも確実なのは六四二.三の三角点を発見することだったが、これはついに見つけられなかった。その後尾根は何度か林道とクロスしたり並行したりしたが無事丸山(八○一)に登り上がることができた。丸山を下るとそこにも林道の続きが山を巻いてきていた。目の前に甲斐駒ヶ岳の勇姿があった。
ここから径もはっきりしてきて、途中金峰山や茅ヶ岳の眺めのよい伐採地を通過し、昔の木曳道の名残りであろうか、堀割状の径を登っていく。やがて東からの踏み跡を合わせると淵ヶ沢山の頂稜となり、広い頂上へと導かれた。三角点がぽつんとあるだけで山名標示もなく実に好ましい。しかし、まだ誰も到着していないようだ。そういえばこの頂上で宴会をするとは聞いてはいない。麓から登った僕のほうが早く着くはずはないので、もっと先に皆はいるのだろうと一旦西の鞍部に下って登り返すと、にぎやかな人声が聞こえてきて今まさに宴始まらんとしていた。
僕は酒を飲むと動きたくなくなるので山にいる間は飲むことはないが、このときばかりは勧められるままに飲み、すっかりいい気分になってしまった。三十余人もの歓声で、この山もおそらく有史以来の賑やかさだったことだろう。
宴会後は、山村教室の面目躍如で、淵ヶ沢山三角点を踏み、僕の登ってきた尾根を左に見送って、小武川の第二発電所へ藪を漕ぎ漕ぎ下ったものだった。そこへ待たせていたバスで宿へ直行、温泉につかって夜の部となり、いつ果てるともしれぬ宴は続いたのだった。
以上が〈山雷の古稀〉一日目の顛末である。山雷とはもちろん山村さんの事。教室の皆さんを率いての山行中、しばしば雷を落としておられるらしい。
この時の登山を奥へ進めて、ぐるっと一周し、武川村と韮崎市の市村界尾根を小武川へと辿ろうというのが今度の僕たちの計画である。小武川の屈曲部へ突き出たこの尾根は、その形から象の鼻と呼ばれている。
先週に引き続き、A君とY嬢、犬のポンが我々三人と一匹に加わる。車が二台あるのを利用しての計画で、一台だとこの行程はなかなか厄介である。
中央道須玉インターチェンジから先年開通した国道二○号への近道を利用する。トンネルを抜けると甲斐駒ヶ岳が実に雄々しく屹立していた。道路脇に駐車帯があって展望所となっているようだが、ゴミだらけだ。いずれ天罰が下るはずだが、馬鹿は山など眺めずにさっさと行ってもらいたい。
新奥から林道を少し入った所に車を停め、A君と二人で一台を下山地点にデポしに行く。その間に何かと手間のかかる渓への食事を終わらせておいてもらう。
象の鼻の突端だと思われる所に見当をつけて車を駐車し、周りの様子を確認しておく。山を削って造った道路は側壁が急峻な崖になっていることが多いからで、首尾よく尾根を下ってきたのはよいが、ほとんど垂直なモルタル壁の上にでも出てしまうと降りるに降りられない。ここも例にもれず急峻な崖で尾根が終わっており、降りるなら北側しかないことを確認する。が、この時の偵察不足があとで響いてくるのである。
元に戻ると準備は終わっており、早速渓をかついで歩き出す。今度は勝手知ったる径だから悩むこともない。前回見つけられなかった三角点を捜しながら登るが結局また見つけられずじまいだった。この林道は尾根をあまり迂回せずに続いていることがわかっていたので、前回のようにことさらに尾根に忠実に歩かず、素直に林道を歩いていった。
丸山の頂上にある祠を皆に見せてやりたい気もしたが、この山を巻いて林道が延びていることを知っているので、どうしようかと伺いをたてると、間髪を入れずA君の「巻きましょう」という力強い返事が返ってきた。昔、高名な登山家が、文明の利器が使えるのに使わない馬鹿はいない、と言ったそうだが、いつの時代も水は低きに流れるものらしい。頂上を前回踏んでいる僕にも依存はない。
丸山を巻き終えて林道と尾根径が並行する場所で、前回同様甲斐駒にうっとり見惚れる。そこから少し登った伐採地で切り株に腰掛けて一服。山座同定をして楽しんだあとは一気に淵ヶ沢山まで登った。
出発点で放して以来姿を見かけなかったクリオが息を切らして追いついてくる。こいつは本当に山が好きだ。水を得た魚ならぬ山を得たクリオといったところか。一方のポンは人から離れずについてくる。自分の実力を知っているのだろう。
ちょうど昼となったので食事とする。ゆったりした気分になって、このまま動きたくなくなってしまう。だが、今日はこれからが本番なのである。僕の山は大抵その日の最高到達点−それが頂上であることが多い−で昼食を食べるように設定するのでこんな事は珍しい。
渓はどこにいようが空腹でさえなければ機嫌がいい。食事を済ませて、担いで歩き出すとあっという間に寝てしまう。去年の宴会をした場所を通過する。その際の賑やかさを思いだし、なんとなくもの寂しく感じる。そこからは初めて踏み入れる径である。それはだんだんか細くなる。二重山稜のような場所を通過すると南北に延びる尾根に乗る。と、クリオの吠える声がしたかと思う間もなく目の前を大きな物体が地響きをたてて横切った。鹿だ。クリオが凄まじい早さであとを追う。ワンテンポ遅れてポンが続く。まもなく今度はポン、クリオの順で帰ってきた。野生の鹿に追いつけるはずもない。追いついたとしても蹴飛ばされるのが関の山だろう。
日がかげり雪もでてきて景色も寒々しくなってきた。見返り峠へ続く径は雪に埋もれていたのか分からないまま一二○六峰に着く。このあたりではかなり慎重に地形を見ながら進む。A君達が、よく自分の居場所がわかりますね、と言うが、地図上で自分の位置を確認しつつ歩くのがおもしろいからこんな山に入るのである。
一一二八峰までは大した藪もない、伐採作業に使ったワイヤーやオイル缶などが残る植林の尾根径だった。ここから北東へ下り、東南東に尾根が市村界とともに屈曲する部分が難しいポイントと思われたが、藪は濃くなったもののあるかなしかの踏み跡があり、無事九七二峰西の鞍部に辿り着くことができた。そこは沢の源頭部らしく、土がジクジクと半沼状になっていた。少し下れば水が得られるに違いない。
藪の下りで渓がむずかりはじめていた。藪漕ぎ中に背中で泣かれると悲壮な気持ちになってくる。まるで逃避行だ。九七二峰の登りは終えておきたいので、そこまで我慢してもらう。
九七二峰で最後のミルク休憩とした。犬たちもさすがに疲れたのか、寝そべってうつらうつらしている。
この峰の先で小武川第二発電所からの電線が山を越えていて、その下が防火帯のように切り開いてあり、そこを歩いていけば簡単に下れそうだった。だが車は象の鼻に停めてあるのだし、もうほんのわずかの尾根歩きだと思っていた。しかし、それはとんだ思い込みだった。
実はこの先から二万五千分の一地図が『鳳凰山』から『韮崎』に変わるのに、残りは単純な尾根歩きだと思って持ってきていなかった。代わりに全体を見渡せる五万分の一地図『韮崎』を持っていた。それをいつも使っている二万五千図を見る感覚でつい見てしまったものだから、もうあとわずかの距離で、しかも下りばかりであるとすっかり思い込んでしまっていたのである。みんなにもそう宣言していたのに、いつまで歩いても尾根は終わらないし、あまつさえ登りまででてくる始末だ。後ろから責めるような視線を感じる。
それでもようやく車の走る音が聞こえてきてほっとするが、これからが最後の難所である。朝の偵察で南側には降りられないことはわかっている。しかし北側も上から見るだけではどの辺りが安全に降りられるかわからない。もっとよく見ておかなかった事を悔やむ。渓がいるので無理はできない。
そこで、まず僕が空身で降りて探ることにした。急斜面をすべり落ちるように下っていくと、高さ二メートルくらいのコンクリートの側壁の上に出てしまった。飛び降りられそうにも思えたがつまらぬ怪我をしないとも限らない。そこらにあった蔓を切って木にしばりつけ、それにすがってようやく林道に降り立った。
尾根の突端部が側壁が切れて土の斜面となっているので、そこにみんなを誘導することにして、まずはロープを探す。うまい具合に、路肩が崩れた場所に、そこに張ってあったのだろうトラロープが鉄杭とともに半ば埋もれている。それを頂戴して再び登る。
妻に渓を背負わせ、木に縛りつけたロープの長さ分だけ、上と下で見張りながら後ろ向きで下らせる。それを何度か繰り返して無事全員林道に降り立った。
ここにまた登山口の車を持ってくるつもりだったが、もはやそんな面倒な事はしたくない。置いてあった僕の軽ワゴン車に人も犬も荷物も見境なく無理やり押し込んでしまう。
定員は四人だが、渓のチャイルドシートに一人分占拠され、ただでさえ乗り心地の悪いこの車の荷室に座らされたA君は、未舗装の路面で車がバウンドするたびに悲鳴をあげるのだった。
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