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                   富士山(八月二十五日)               

中学、高校と過ごした名古屋の家の壁に富士山の写真が飾ってあった。カレンダーから切り取った写真を額に入れただけのものだった。

名古屋に越して来てすぐの頃からそれはあったから、六年間、見るともなく毎日のようにその富士山は目にはいっていたことになる。

富士山の裾には水面が覗いている。画面に張り出した栂の木の枝には雪が残っている。その雪がいかにも重そうなので、もう春近い頃であろうか。

僕はその写真を静岡県のどこかから見た風景だろうと思っていた。水面は駿河湾か何かだろうと思っていた。富士山は静岡県という認識しかなかった。西日本の人間には案外そんな人も多いのではなかろうか。

富士山の八面玲瓏はどこから眺めたか詮索させない。富士山麓に住んでいる人や、富士山にことさらに興味を持っている人以外にとって、富士山はどこから見てもただ富士山なのである。

その写真が山梨県の御坂峠からのもので、裾に拡がる水面は河口湖のものであることを知ったのは、うかつなことに山梨県の大学に進んで四年もたって、初めてその地を訪れてからだった。

そこを訪れたのは、友人に誘われてひと夏をその峠の茶店でアルバイトをすることになったからであった。そのアルバイトを終えて実家に帰った時、相変わらず飾ってあった富士山の写真を見て、おや、これはこの夏ずっと見ていた景色ではないかと、ついに合点したのである。

その茶店で卒業後もそのまま働くことになって、はや二十年ちかい。四年前からは、あろうことかそこで寝起きまですることになった。中学生の時から見るともなく見ていた写真の景色を実際に毎日のように眺めることになるとは、何とも不思議な因縁である。

いかにして僕は富士山の麓に流れ着いたのか。御用とお急ぎのない人には聞いていただこう。


中学生の時、京都大学を出た叔父に京都を案内してもらったことがあった。道すがら、京大文学部の中で借りた落書きだらけで古色蒼然とした便所で用を足しながら、漂う香りにも何となく古都の歴史の重みがあるような気がして、ああ、いいなあと思った。よし、大学は京都大学にしようと思った。身の程知らずと言うべきである。

高校生になって大学受験の何たるかがおぼろげにもわかってくると、京都大学などきれいさっぱり頭の中から消え、代わって登場してきたのが、その頃あこがれ始めた日本アルプスの見える町にある大学だった。

経済的理由から、名古屋の実家から出るなら国公立大学でなければならない。となると、候補地は、松本、富山、甲府ということになる。文学部志望ということで、まずそれのない甲府の山梨大学は外れた。信州大学は、愛読する北杜夫の出た旧制松本高校の直系でもあり、北アルプスの玄関口の松本にはことさらに想いが強く、まずは第一候補だった。

ところがどっこい、かの偏差値という奴が少し足らなかった。こんな時、目標に向かって努力しようという気が僕には欠ける。努力ができるのも才能のひとつである。才能のある人ばかりの世の中ではない。努力する才能のなかった人は、あとで「あの時頑張っていれば」などとつまらぬ後悔さえしなければ、それはそれでいいのである。

結局、富山大学を受けることにして、努力が欠けるくせに、早くも三千メートルの真白き雪の壁を連ねる立山連峰が見えるであろう学び舎の窓から、それを眺める自分を想像してうっとりしたりした。やはり馬鹿である。

当時、まだ国立大学は一期校と二期校に分かれていて、信州大学や富山大学の属す二期校の試験は私立を含めたあらゆる入試の最後だった。

二月の最初から始まった名古屋の私大の入試の合否はすでにそれまでにはわかっており、そのいくつかを受けた僕にも合格通知が届いていた。

となると、もともといやいやながらしていた受験勉強が持続するはず
もなかった。国立大学は文系学部でも理科と数学の試験があったので、生まれつきそれを不得意としてきた僕にはなおさらだった。僕は覚えるのは早いが忘れるのも早い。富山まで受験には行ったものの、すでに頭の中はからっぽ。まるで旅行気分で街中をぶらぶら見物している始末。試験ももはやちんぷんかんぷんで、当然落ちた。

結局入学することになった富士北麓の小さな町の公立大学は、国立大学と入試日をずらして、しかも全国主要都市で出張試験を行っていた。その受験料収入が人口三万人あまりの町の市立大学には馬鹿にならないのである。当然倍率は上がるが、他の大学に流れる人が多いので実質はそうでもない。

名古屋の家から歩いて十分の会場でその大学の試験が行われたので、学費の安い公立大学とて僕も受けてみることにしたのだった。受験科目に理科と数学を選ばなくていいことも理由だった。受けることになるまで、大学の名は知っていたものの、それが山梨県にあることなど全く知らなかったのだから適当なものである。

その大学の合格発表は新聞で見た。だが、そこには僕の名前はなかった。ああ駄目だったか、くらいにしか思わなかったが、その午後、補欠合格の電報が届いて、すでに名古屋の私大に進学しようと決めていた気持ちが揺れた。

憧れていた山は日本アルプスのような壁のように連なる山脈で、富士山の名前を知らぬはずはないが、眺めたいとか登りたいといった対象ではなかった。それでもいざ富士山麓の大学に入れる資格ができると、富士山もまたたのしからずやという気分になってきた。南アルプスだって遠くない。八ヶ岳もある。話に聞く奥秩父も。それになんといっても家から離れ、独り暮らしができることが魅力だった。

哲学科志望だったのが、本を読むのは好きだから国文学科でもまあいいかと宗旨変えも早かった。勉学に励むんだという気があればこんな安易なことはできないはずで、今もって変わらぬいい加減さである。

一枚の紙切れがいとも簡単に人の運命を変えてしまった。


一九七七年の四月。十八年間暮らした家庭を僕は出た。名古屋駅から東名高速バスに乗る僕を母が見送ってくれた。窓外で手を振る母の涙顔に僕にもこみあげてくるものがあったがそれも束の間、バスが時刻通りに発車すると、母の姿はみるみる小さくなっていき、僕の気持ちの中で、独り暮らしができるうれしさが家を出る寂しさを凌駕していった。

御殿場で高速バスを降り、乗り替えた富士吉田行きのバスは籠坂峠を越え、山中湖畔を走る。天気さえ良ければすでに富士山の大観を目の前にしていたはずだが、どんよりとしたいかにも陰欝な空の下、初めての僕にはどちらに富士山が見えるのかもわからない。初めての土地の印象は天候に左右される。名古屋ではもう桜が満開だったのいうのに、山中湖は春のきざしさえなくうすら寒く拡がり、観光地というのに人影もなく、道路端には雪さえ残っていた。沈んだ気分になって、新しい生活の先行きさえ暗澹としてくるようだった。いまだに山中湖に好印象を持てないのは、この出会いのせいだろう。

富士吉田で電車に乗り替えた。この町も富士山が見えるのと見えないのでは印象はまるで変わる。富士山などやはりどこにも見えず、何となく雲の中に向かって地面が急傾斜になっていく方向にそれがあるのかと思われた。赤や青のトタン屋根ばかりの家並みは、今まで見たこともなかった。黒く垂れ込めた雲の下、派手な色がかえって寒々しく感じられた。

電車は山と山に区切られた狭い谷あいの土地を走っていく。やがて少し空が広くなって、細長く拡がる町並みの中に電車は入っていった。わが母校のある町、都留市である。

町の中心部にある駅にしては、いかにも寂しい谷村町という駅に降り立った時、僕のこの町での学生生活が始まった。その自堕落千万の日々を思い出すと、脇の下に冷や汗が流れるし、この文の主旨ではない。

その時まで縁もゆかりもなかった山梨県に、その後二十年以上住み続け、いつの間にかこれまでの僕の人生の中でもっとも長く住んだ土地になろうとは夢にも思わなかった。おかげで、普段は標準語を使い、相手によっては大阪弁、名古屋弁、山梨弁を自由に使いこなす男ができあがってしまった。こういうのをトライリンガルとでもいうのだろうか。

大学案内のパンフレットには都留の街を上空から俯瞰撮影した写真が載っていて、そこには富士山が大きくそびえ立ち、いかにも富士の眺めが良さそうな印象を与えたが、これは宣伝用というべきで、実際には町中からは前衛の山にさえぎられてほとんど見えず、三方を山に囲まれた大学のある場所からはなおさら富士山など影も形も見えないのだった。

富士山など見えずとも僕は何とも思わなかったが、人によってはそのつもりでこの大学へ来るのを楽しみにしていてひどく落胆しているものもいた。高校時代から山に憧れ、山の本を読み、普通の人よりは山に関心もあれば知ってもいる僕が富士山に興味を示さず、登山にはまったく興味のなさそうな人が富士山が見えないとがっかりしている。

富士山は単なる山ではない。まるで憧れのスターを見るようなところがある。

大学入学と同時に入ったワンダーフォーゲル部は、七月に一般の学生を募集して富士登山を行っていた。全国からやって来る学生が富士山麓にいる間に一度富士山に登っておこうと考えているのに目をつけ、それらをまとめて面倒みようというわけだ。その収入を部の備品購入に充てるのである。

僕たち部員は富士吉田駅から歩き出し、五合目下に幕営、翌日五合目までバスでやってきたお客さんと合流、頂上を目指すわけだ。

半日の土曜の講義を終えて出発するのだから、炎天下の中を浅間神社から中の茶屋までの、まだ未舗装だった坦々したほこりっぽい大道を歩かなければならなかった。はやくもバテ気味の者が続出する。僕は調子がよく、それを見込まれ、でかいキスリングの上にバテた者が背負っていたスイカをのせられてしまった。

翌日も晴天で、無事吉田口頂上に立った。細かいことはすでに忘却の彼方にある。剣ヶ峰までは行かなかった。

当時の下山道だった吉田大沢の砂走りを先頭きって下り始めた時、トランシーバーで後続に不調者が出たのを知り、また登山道に戻って登り返したりした。五合目で一般学生と別れて、僕たちは富士吉田駅まで歩いた。真っ暗な中、浅間神社に着き、そこから駅までのなんと遠かったことか。ようやくたどり着いた駅前の店でファンタの五百ccボトルを一気にラッパ飲みした。今なら何が何でもビールということになるだろうに、まだ可愛げがあった。あんな絶好な状態の時にビールを飲まなかったとは、何とも惜しいことをしたものだと今だに悔やまれる。意地汚いとはこのことである。

ともかく、わが体力のピークであった。その後、クラブともだんだん疎遠になり、昼と夜が逆転したような不健康な生活でみるみる体力は失われていった。

在学中にあと二回登ったが、山から離れつつあった僕には、富士山がことさら好きになるということもなかった。



大学の最後の夏休み、友人に紹介されてアルバイトした御坂峠の茶店に、成り行きで卒業後も働くようになってから、僕と富士山との否応のない付き合いが始まった。

太宰治は昭和十三年、この茶店に三ケ月滞在した時の体験をもとに小説『富嶽百景』をものした。そのひそみにならえば、僕なぞ『富嶽万景』といった作品をものしてもいいくらいの月日をここで過ごしてきた。

以前、西穂高岳に登った時泊まった蒲田温泉の宿は、双六小屋などの経営者で山岳写真家の小池潜さんの親戚筋にあたるらしく、本棚にその写真集があって、同じく山岳写真家の山本和雄さんが文を寄せていた。

それを読んで、はたと膝を打った。「日常的に滞在している山域のいい写真が撮れるのはあたりまえと思われがちだが、それは違う。自分の庭のようなところにいつも新鮮な気持ちで接し、感動を持ち続けることは並大抵のことではない」といった内容だったと思う。

その通りだと思った。日常というものは、どんなに景色のよい所にいようがそれはやはり日常でしかない。

富士見三景のひとつといわれる御坂峠の風景も、そこが仕事場であり、生活の場となると、感動ばかりがあるはずもない。漫然と過ぎていく日日のようでも、実際には一日とて同じ日はない。すぐれた随筆というのは、むしろ、そんな日常の中の見逃してしまいがちな芽を見つけ育てて見事に結実させたものである。しかし、人がわざわざ写真を撮りにくるような景色を目の前にしながら、才能もなく偏狭な僕はそこから何ひとつ生みだせず、自分が飯を食わんがための風景をまるで汚いものでもみるように、目をそむける素振りすらしたこともあった。

「人はパンのみにて生くるにあらず」確かにそうかもしれないが、パン以外の部分でしか生きていないような僕でも、パンを食わねば生きてはいけないし、パンが食えてこそ山に登ろうなどという余裕も生まれる。しかし、パンを得んがために懊悩の多くが発生し、澱がたまってくるのもまた事実である。仕事の場が都会にあろうが、山の上にあろうが変わりはない。

その懊悩や澱を取り除き、さらにパンを得んがための生活に張りを与えるために人は遊ぶ。僕の場合はそれが山旅だった。つまり、仕事と遊びは、お互いに必要不可欠な間柄といえるだろう。

美しい場所には美しい時が流れているに違いない。少年の僕を山に憧れさせたのは、そんな想像だったのだろう。そして、それが幻想に過ぎないことがわかってくるのが大人になることだった。でも、あきらめきれない漂泊者は一生を山旅に暮らす。

今はこう思っている。美しい場所にこそ美しい時が流れていて欲しい。そして、そうせんがための努力は怠ってはならないと。

再開した僕の山旅は地元の御坂の山に始まった。大石峠から西のいわゆる奥御坂へ月に三回も行ったりした。普段、朝から晩まで眺めている富士山も場所を変えればまた新鮮に眺められたが、経験を積むにつれ新鮮味もだんだん薄れてくる。

甲州の山旅は、すなわち富士山を見る山旅でもある。新鮮味がなくなると、今度はそれがうっとおしくなってくる。休日は仕事のことなど忘れていたいのに、汗水垂らしてやっと辿り着いた尾根や頂上から、ぬうっと「おまえたちがどこにいようが全部お見通しだ」だと言わんばかりに富士山が顔を出しているのを見ると、あっと言う間に日常に引き戻されてしまう。おもわず「ほっといてくれ」と悪態のひとつもつきたくな
る。

それでも眺めのよいところに出ると、富士山はどこかな、と無意識のうちに捜している自分に、苦笑させられることもある。まるでお釈迦様の手の間で飛び回っている孫悟空のようである。

普段近くから富士山を見ているせいか、僕の目には遠く離れた場所からたまに見る富士が好ましく映ることがある。諏訪湖畔から見た、八ヶ岳と南アルプスの裾野が合わさるところにきれいにはめこまれた夕暮れの富士。夜明けの燕岳から見た、朝焼けの雲海の上の、ひときわ遠いのにひときわ高い富士。奥床しくて、気品があって、しかも毅然として揺るがない。そんな富士が印象に残る。遠くに離れてすら観賞の対象となりうるのも、また富士山ならではには違いない。

そんな山旅も十年を続けると、今や、どんな富士山の写真を見てもそれがどこから撮られたものかわかるようになってしまった。そんな折々の富士山の姿を語るだけでも一冊の本が書けそうだ。

もっとも高く、もっとも膨大で、もっとも端正な山は、そのひとつだけでも異端であるはずなのに、富士山はその全ての要素を満たすがゆえに、もっとも通俗である。なんともおもしろいと言わねばならぬ。



夏の終わりに貴重な一日の休日を得たとき、富士山のことが頭に浮かんだ。これまで自分が登りたい山に渓を背負って行くのが常だったが、富士山ばかりは、渓を連れて行ってやりたい気がした。

産院の窓の、実に穏やかな秋の富士に迎えられて以来、渓はひたすら富士山に抱かれるように育ってきた。きれいな着物を着せてやることもない形ばかりのお宮参りは、一ヵ月検診を無事終えたあと、夕暮れの誰もいない吉田の富士浅間神社で柏手を打った。今頂上の奥宮へ参れば、これほどの首尾一貫はないだろうと思ったのである。

山登りを再開して以来、吉田口と富士宮口から富士山に登った。どうせならまだ登っていない径を辿りたく、須走口を選ぶ。標高差はあるものの、帰りに砂走りを駆け下れるという利点がある。

富士山がくっきりと赤い山肌をあらわにした澄んだ大気の朝だった。

須走口の駐車場は夏の終わりとて、満杯というほどもなかった。かわりに片隅に並べられた仮設トイレは、これは満杯というべきで、入る気にもなれない。車が登ってこられる管理のしやすい場所ですらこうなのだから、あとは推して知るべしである。

朝食を終えて、ひと月ぶりに渓を背負って歩き出す。駐車場は砂礫地にあって頂上が望めたが、登山道は茶店の前を抜けて、展望のない林の中に入っていく。

今は五合目まで車で登ってしまうことがほとんどなので、富士山といえば荒涼とした火山のイメージが、そうして登った人には特に強いだろうが、富士の偉大さはその高さを支える裾野をびっしりと埋めた森林にこそある。それを味わうこともなく、突然森林限界上に放り出されるのは、登山者にとっても不幸なことに違いない。

もっとも、その森林も次第に蚕食されているのは誰もが知っているとおりである。僕も富士山を食い物にしているひとりであるが、観光の為の開発は、いずれ自分たちの首を締めかねないだろう。自然を資源とした観光は、これから開発から保存に方向を変えねばなるまい。

左から下山道が合する。登山道はわずかに残る林の中を選ぶようにして続く。見晴らしのいいところへ出ると、一片の雲もなかった空には、はやくも夏の雲が湧き出していた。砂走りの下山道を砂煙をあげて下ってくる人たちも見える。

三千メートル近くなると御坂の山などもう地表の皺になっている。双眼鏡で覗くと、御坂の旧道がトンネルに吸い込まれていく部分が何とか見える。そこにあるはずの茶店はもはや九倍の双眼鏡ではよくわからない。富士山から見下ろす光景はやはり富士山ならではで、その高さと大きさのなせるわざだろう。気宇壮大になることは間違いない。ふだん自分が這い回っている場所を見下ろせる人なら、その小ささに、そんな所で悩み暮らしているのはまったく馬鹿馬鹿しいことを感じるだろう。かくいう僕もそのひとりであって、そのせいで数年に一回くらいは富士山に登ろうという気になるのかもしれない。

下山道の合する七合目の太陽館で一服した。ここにはさすがに人が多く、夏富士らしい。ここまで夫婦連れを一組追い抜いただけで、最盛期を過ぎたとはいえ、まだ八月だというのに静かなものだった。ここからは登山道と下山道がときたま同じになることがあり、足のもぐる砂地を登るのはつらい。

やがて吉田口登山道と合流すると、さすがに人も多くなるが渋滞するほどのこともない。強力に引率された幼稚園児の団体を追い抜く。標高三千メートルをはるかに越えた地点を登る幼稚園児たちを0才児を連れた夫婦が追い抜いていく。これもまこと富士ならではでの光景である。

吉田口頂上の石の鳥居はなかなか近づいてこない。何度も息をつきながら、やっと鳥居をくぐると、どっとばかりに風が吹いてきた。剣ヶ峰まで行くつもりだったので、さっさと富士山銀座を通り過ぎ、剣ヶ峰の見える場所まで行ってみると、風がさらに強く吹きつけ、レーダードームも火口も一瞬のうちに霧に閉ざされてしまった。剣ヶ峰登頂は即座に中止して、小屋のひとつに逃げ込んだ。

人は多くない。小屋の中にいると、風の音もせず、三千七百メートルを越える山の上にいるような気がしない。注文したラーメンが半煮えなのでその高さを知る。他の山と違って、0才の赤ん坊もさほど注目を集めないのも富士山らしい。観光地に赤ん坊連れが来ているくらいの感覚である。小屋で働く人達も赤ん坊が別に珍しくもないようだ。さすが夏の富士山ともなると、0才から百才まで、どんな年齢も日常茶飯事なのだろう。きっと自分で這って登ってきた赤ん坊もいるに違いない。担がれて登ってきた渓は疲れもなく、日本最高所でも元気一杯、食欲旺盛である。

外へ出ると、相変わらずの霧と風。〈冨士山頂上淺間大社奥宮〉の石柱の前で記念写真を撮る。最高点の剣ヶ峰へは行けなかったので、ここで渓の富士山への挨拶とさせてもらう。御坂峠からいつも見ている富士山の頂上はここなのだから、まあ、いいだろう。この写真はあとで現像したら今時珍しいピンボケだった。オートフォーカスのコンパクトカメラは、霧があるとうまくピントが合わないことがあるようだ。

下山口まで歩いていくと、いました、富士山ならではの妙な人が。

以前お鉢巡りをしていて、ワイシャツにスラックス姿でアタッシュケースを持った人に「この辺に食堂はありませんか」と尋ねられたことがあった。どういう経緯でその人がそこに存在するのかどうにも理解できかねたものだった。その人は観測所のレーダードームを発電所だと思っていたらしい。なんでそんな発想になるのか不思議に思ったものだ。

もっとも、夏の富士山ではいかにも登山者然とした衣服に身を固めた僕たちこそ妙な人なのかも知れぬ。いつぞや富士宮口から登った時には、あそこの五合目駐車場からは頂上のレーダードームが手の届きそうな距離に見えるせいか、出来心で登ってみようと思う人が多いに違いのだろう、登山道には、湘南の海岸からそのまま移動してきたようなビーチサンダルをはいた若者が少なくとも十人以上、登ったり、下ったりしていたものだ。

この日、下山口にひとりで立っていた中年の男は、普通のスラックスにポロシャツ姿、足元はビジネスシューズ、肩からはショルダーバッグ、片手にはボストンバッグをさげている。まるで都会の公園をハトに餌をやりながら散歩をしているような風体である。その人は僕たちに「きょうは、赤ちゃん連れにはあいにくの天気でしたね」と、やはり都会の公園でするようなあいさつをすると、恐ろしい勢いで砂煙を巻き上げ下っていった。僕たちもすぐに続いたが離されるばかり。底に凹凸のないビジネスシューズは砂の上をよくすべって富士山の下山道向きなのかもしれない。

吉田口下山道を分けると、人はぐっと少なくなる。七合目から下山専用道に入る。下からインド人風の男が登ってきた。足場の悪い下山道を登るとは御苦労なことだ。何かの修行なのかもしれない。砂走りを逆に登ってきたのだろうか。どんな人がいようが、何をしていようが富士山では不思議ではないのである。

遠くで雷鳴がとどろき、今にも降りだしそうな気配となった。朝の好天に、雨など降らないだろうと雨具を置いてきてしまった。朝の天気がいいほど午後からの雷雨が起こりやすい夏山なのに安易このうえない。日本一の高山でありながら、夏の富士山ほどなめられている山もない。

代わりに持っていたのは、登山を再開したころ、とりあえず間に合わせに買った、ビニール風呂敷のひとつの角が二重になっていて、そこに頭を突っ込んでかぶる形式のポンチョと一本の傘。

雨にそなえてベビーキャリアを八十リットルのザックカバーで覆ってしまう。砂走りを一気に下り始めると雨が降りだした。激しさを増す雨には傘やポンチョなど役には立たない。ただ早く下るのみである。途中、老母と息子風の二人連れを追い抜く。いかにも疲れた様子で、役立たずのビニール合羽は風にはためき、他の高山でなら遭難寸前に見えるだろう。

遠くに車が止まっているのが見え、何かと思いぐんぐん下って行ったら、そこが砂払い五合で、あずま屋が立っていた。そこの持ち主と思われる男が心配気に下山道を見上げていた。「お疲れ様。どうぞ休んでいって下さい」と愛想がよい。この雨ではいやでも雨宿りをさせてもらうほかはない。「休むのは無料ですよ」と言った男は最後に「皆さん、ジュースくらいは買ってくれるけどね」と付け加えるのを忘れなかった。買いますよ。買わせてもらいますとも。

頂上からここまで一時間半足らずで下ってきた。砂走りの威力は凄い。普通の山で標高差千八百メートル近くを一日で登って下ったら、下りの苦労は並みではない。

篠突く雨もさすがに勢いを減じて、遠くに雷鳴も去っていく。少々の雨はもう濡れついでだ。あずま屋をあとにする。ここからは林の中に入る。朝方の見覚えのある地点で登山道と合流。ビニール合羽姿で今から登る人たちとすれ違う。どこまで登るのだろうか。五合目の茶店では白人の青年が客引きをしていた。Oh.Mt.Fuji !

駐車場に戻ってザックカバーをはずすと、中から赤ん坊が出てきたので、となりに車を止めていた親子連れが驚いていた。

河口湖に戻って、新しくできた、富士山の眺められる露天風呂があるという温泉に浸かった。なるほど富士が見える。

驟雨のあとの塵の洗い流された空に、赤茶けた山肌をくっきり見せているはずの富士山も、眼鏡をはずした僕の目にはぼやけて見える。山とは登ってはじめて親しくなれる。ああ、あの山は自分のものだ、と不遜にも思うことすらある。しかし、富士山は違う。親しくなれるどころか、突き放され、さらに謎めく。膨大だからか。それもあろう。しかし、世界中にもっと高い山などいくらでもある。それは物理的な膨大さだけではない。人間の歴史が始まって以来、この富士山という無機物に差し向けられた日本人の情念、つまりは思の丈の量の膨大さが他のどの山よりも桁外れだからだろう。それが僕の富士を見る目に知らぬうちに影響を与えている。期せずして仕事上で富士山と否応なく関わりあってしまった僕の、素直に富士賛歌が唄えない微妙な心持ちもある。人も山も、たまに会うくらいが新鮮味が保てていいのかも知れぬ。

そんなことを考えていると、なにも近視のせいばかりでなく、つい数時間前、あの山のてっぺんで親子三人うろついていたこともなにやらぼやけて、夢の中の出来事だったようにも思えるのだった。

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