太宰治『富嶽百景』 |
高校時代、太宰読むべしと友人に薦められて読んで、数ページでさじを投げた。題名は忘れた。以来、太宰治とは国語の教科書以上のつながりはなかった。 だから、学校を出た82年、太宰と関わりのあった御坂峠の茶店で働くことになったのはまったくの成り行きだったのだが、ここを訪れる太宰ファンにとっては、好んでこんな山中で働いている若者なら、太宰を信奉するあまりでなければならず、その手の質問にはしばしば閉口させられた。しかしそれも80年代後半までだったように思う。 毎年六月の太宰の命日にあわせて催される「桜桃忌」への参列者も年々少なくなっていったし、ことに、かつてはかなりの部分を占めた若者の姿など、90年代にはほとんどといっていいほど見られなくなってしまった。こと太宰の文学に限らず、思春期の若者の一部が必ず患ったはずの文学かぶれという病気が急速に衰えていったのが、私が御坂峠にいた20世紀最後の20年ではなかっただろうか。 私は活字中毒の気はあったものの、読むのはもっぱら小説以外の本だった。高校時代の挫折も尾を引いていて、太宰信者が次々にやってくるそんな環境にいたというのに、遅ればせながらでも読者になることもなかったが、それでも、茶店を舞台にして書かれた『富嶽百景』だけは折にふれ何度も読み返すことになった。 『富嶽百景』は太宰中期の小説の傑作とされている。だが小説というものを、その作品のみ裸一貫で、何の予備知識もなく、もちろん作者が誰であることも知らずに読まれてなお鑑賞に値するものだと私は考えていたから、いったいこれが小説と呼べるものだろうかという疑問が最初あった。 しかし『富嶽百景』は、読めば読むほどなるほど巧妙な嘘、すなわち太宰の創作で要所を固めた文章だとわかってきた。にもかかわらわず、太宰の読者は、作中の「私」をあまりにも作者と重ねるため、また、作者自身も確信犯的なため、作中人物のモデルをいちいち捜し出しては当時の話を聞くといった光景が、私が茶店にいたころにもよく見られたが、例えばテレビの旅番組が興味本位にそういった企画を立てるならともかく、歴とした研究者までがそれをするのを笑止なことだと眺めた憶えがある。言うまでもなくそれらは素材にすぎないのである。 たまたまこの春、山口耀久氏の「紀行文の虚と実」という文章を読んだ(山と溪谷4月号)。山口氏はここで『富嶽百景』の一場面、三ッ峠での井伏鱒二の放屁のくだりを例にとって、紀行文における虚の効用を示しているのだが、『富嶽百景』は、全体を見渡したとき、虚を実が裏打ちするような効果をあげた文章であると私には思える。その意味でこれはまことに小説である。しかしそれでもなお、作者の経歴を知らずしてこの物語が成立するかいう一点ではまだ私の考える小説とはいえない。だが言葉の定義は本題ではない。 私は、この文章を書くうえで、今一度『富嶽百景』を読み返してみた。そして、太宰がたった二ヶ月あまりの御坂峠滞在で描いた富士山の印象には、私の20年ちかくにおよぶそこでの暮らしで得た印象をことごとく含んで遺漏がないことにあらためて驚かされた。 『富士山』という本を編もうとした深田久弥をしてさじを投げさせたほどの数がある富士の文献の中で、私が読んだものといえばごくわずかなものだろう。だが、そのわずかな中にも『富嶽百景』に出てくる富士ほど私の富士を表現しているものはない。それは生活の中でいつも目の前に立ちはだかる山だった。私も太宰と同じように、富士を眺めて狼狽したり、うんざりしたり、へとへとになったり、罵倒したり、とても敵わないと思ったり、物事を頼んだりした。 富士山に限らず、人間以外のあらゆる自然物がみずから語りかけてくれるわけではないから、それらを描こうとすることは、それらに託してみずからの精神の有様をあぶりだそうという作業に他ならない。その意味で山は高くも低くもなるし、美しくも醜くもなるし、孤高にもなれば俗にもなる。 そして、ここでは山は日本人の誰もが知っている富士山でなければならなかった。あらゆる点で傑出した日本一の山でなければならなかった。槍や穂高では話にならなかったのである。太宰の富士山との邂逅は偶然だったかもしれないが、物語をつくるにあたって、その偶然を最大限に生かし得たのはやはり才能のなせるわざだったのだろう。 文学をジャンル分けすることは難しく、また無意味なことも多いが、ふつうなら山の文章に入ることもない『富嶽百景』をここで取り上げたのは、登山者の書く山の文章が、事実から逃れられないあまり、単なる記録の域にとどまり、結局は描くべき人間(自分)がなおざりにされがちなのにくらべ、山に登るわけでもない一作家が、山を素材として使って、事実を想像力で適宜に味付けし、ついには人間に迫りうることに注目したからだった。現代では山の世界に、目新しい、読む価値のある事実は枯渇しているから、なおさら山の文章は隘路にあると思える。 山口氏は前述の文章の中で、想像力を駆使した山の紀行文の成功例として串田孫一の作品を取り上げているが、次々にそれが亜流を生み、山の文章の一派をなしたわけではなかった。その理由は、我々登山者が、登山という個人の非日常の事実で満足し、そこからさらに想像または創造しようとしなかったことと、そもそも、それができる才能がまれにしかなかったことであろう。 |