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             一ツ木山(3月3日)

西丸震哉さんが「だいたい山で物を拾うまでには、普通は相当の年季がかかるもので...」と書かれている。ところが僕の場合、全く年季を経てないころから物はよく拾った。下ばかり見て歩いているかもしれない。カメラ、ナイフ、ストーブ、ヘッドランプ、オーバーズボン、フリースの上着、コンパス、etc。皆使用に耐える一流品ばかりである。

ある年の春には、達沢山から西に下った旭山あたりで、バッハのフルート曲集のカセットテープまで拾った。まったく汚れていなかったから、まだ落とされたばかりだったのだろう。こんな曲をヘッドホンで聞きながら、この訪れる人もまれな藪道を歩くとはいったいどんなご仁だろうと想像しながら、このテープはしばらく愛聴したものだ。

もう随分前の春、一宮の桃を愛でたあと京戸林道を詰め、京戸山と達沢山を歩いた。その京戸林道がもう終わろうとするあたり、半ば土に埋もれて杖が落ちていた。今はやりの伸縮式の杖でなく、ネジで三分割できるピッケル型の杖である。この杖はその後、春にタラの芽をたぐり寄せる時に役立った。

『遊歩百山』の常連寄稿家W.フォレストさんの紹介する山はちょっと人の行かないようなへんてこりんな藪山ばかりで、何とも変な外人がいたもんだと思い込んでいた。フォレストさんの本『山頂に昼寝あり』(山と溪谷社)に出ているヒゲ面の顔写真も一見日本人ぽくなくて、フォレストさんがれきとした日本人であるとやっと気付いたのはずっとあとのことだった。全く僕も鈍いものだ。

そのフォレストさんが『遊歩百山12』の中に、愛用のピッケル型の杖を芦沢山に忘れたと書かれていた。もう七本目だという。忘れた杖も七本目ともなれば、その杖の形状といい、発見された場所といい、僕の拾った杖はフォレストさんの物である確率は高いと思い、森林書房の渡辺志郎さんにフォレストさんの住所を聞いて手紙を出した。ほどなく返事がきて、京戸山へは昔行ったが、そこでは杖を忘れなかったという。フォレストさんは忘れ物をするほうの達人らしく、「貴君は山で物を拾うのが趣味らしいから拾いに行きなさい」と、フォレストさんが忘れた物と場所が列記してあった。いずれ拾いに行こうと思いながらいまだ果たしていない。

一月に御正体山から鋸刃をたどった時、『遊歩百山』のフォレストさんの紀行を参考にしたので、久しぶりに便りを出した。その時いただいた返事の中に、君の近所の変てこりんな山を紹介してくれないかとあった。これは多分に社交辞令であったのだろうが、調子のいい僕は色々考えて、釈迦ヶ岳の北の日尻山(聖山?)と牧丘町の鼓川最奥の集落塩平の西にある鳥谷山(塒)はどうだろうと返事に書いた。

ところが、手紙を出したあとで『山頂に昼寝あり』を読み返していたら、なんと「鳥谷山や一ツ木山とかに登った」と書いてあるではないか。もう何回も読んだ本だというのにどうしたことだろう。不明を恥じたがもうおそい。あわてておわびの葉書を出したものだ。

前置きが長くなった。やっと一ツ木山が登場してきた。それと、この前に水ヶ森に登ったとき、たまたま車道を調べるために開いた昭文社の道路地図に、二万五千分の一地形図にも名の出ていない山をどうして調べてくるのか、ちゃんと一ツ木山の記載があって不思議に思った。

ちょうど同じ時期に、二度もこの滅多に名前を聞くことない山が登場し、しかもまだ登っていない山だったのだからこれは登らないわけにはいかない。

水ヶ森に登ったあとしばらく妻の実家の熊本に里帰りした。本当は熊本の山にも渓を担いで登りたかったのだが、たまにしか会えない孫を義父母から引き離して山登りをするわけにもいかなかった。山好きの理屈は山に興味のない人の理解を超えているところが多々ある。ま、しばらく山は我慢して、山梨に戻ったらまずは一ツ木山に登ろうと決めていた。



三月三日の雛祭り。普通の家庭なら娘に可愛いべべ着せて「灯りをつけましょぼんぼりに」というところだろうが、この一風変わった家族は娘を不粋な防寒着でくるみ、色紙に描かれた雛人形を部屋に置き去りにし、灯りを消してそそくさと出発する。

盆地まで下ると、あと一月後には桃色に染まる畑の中の道を、行く手に小楢山の円頂と大沢の頭の三角頂が横並びになっているのを見ながら走る。牧丘町で雁坂トンネルへ向かう国道と別れ、巨峰のぶどう棚の中、鼓川に沿って高さを上げる。焼山峠、柳平、そして大弛峠に至るこの道をいったい何度通って山に登ったろう。しかし、その最奥の集落塩平はいつも横目に通り過ぎ、中へ入っていくのは初めてである。

とはいっても、数件の家の間の細道を通り抜けるともう家はなくなって、道の舗装もなくなり荒れた道となる。地図の破線がいつの間にか車が通れるくらいの道になっていることはよくあるが、ここも例外ではない。まだまだ道は続きそうだが、適当な場所があったところで車を置き歩くことにする。

先行したクリオを渓を背負ってぶらぶらと追う。三月ともなれば、景色は冬と変わらなくても何となく空気に春めいたものを感じる。歩いていれば寒くもないし、といって汗をかくほどでもない。背中では渓が子供番組で覚えた歌を片言で唄う。一緒にテレビを見ているうち、いつの間にか覚えてしまった僕も唱和する。車がまず通らない林道をのんびり歩くのも悪くない。

林道は地図で道が二手に分かれるところまで続いていた。北に分かれる径はかつての黒平峠へ続くのだろうか。いずれ歩いてみたい径である。今日は沢沿いに西へ延びる径を行く。左は昭和四二年植栽の落葉松林、右は昭和六三年植栽の檜林。雪の残る径はその間を細々と続く。やがて傾斜がゆるむと、気分のいい小広い林の中を径は蛇行するようになる。

山上の小平地は僕の好みとする場所である。しかし、そんな気分の良さも束の間だった。錆びた一斗缶、一升びん、さまざまなゴミが散見されるようになると案の定林道は近かった。

飛び出した水ヶ森林道をわずかに南下して、一ツ木山へ続く尾根に取りつく。最初の急な登りこそ薮だったが、それもわずかで、一四六○メートルの等高線に囲まれた突起を過ぎると落葉松と赤松の植林地がまだ間伐が済んだばかりのようで歩きやすくなった。

行く手には一ツ木山が笠のように盛り上がっている。振り返れば黒富士や茅ヶ岳の火山群のむこうに雪の八ヶ岳がぼんやり霞んでいるのがもう春遠からじを思わせる。

一ツ木山の北側に達すると頂上方面に向かって切り明けがあった。それは、そこから東へ向かって下ってもいた。帰りはそれをたどってみることにする。

点々と恩賜林界の石標が埋められた斜面を登っていくと、ほどなく頂上らしき場所となった。ただただ広い落葉松林で、三角点もなければ展望もなく、そのかわりおせっかいな山名標もない。一番高そうな場所を頂上に決め、渓を降ろして昼食とする。クリオを含めたわが家族のいつもながらの休日の昼餉である。

一ツ木山というからには往時大きな樅でもここらに一本突っ立っていたのだろうか。いまは一面の落葉松林で、風情のある頂上とは言い難いが、それでもまず人の訪れの少ないというだけで充分な価値があるし、何より僕たちにとって新しい山との至福のひとときが今ここにある。

一時間頂上でのんびりした。帰りは先ほど見た東に下る尾根にある切り明けを、するどい灌木の切り株をよけながら下った。この尾根は朝方登った林道の南に並行して延びている。どこかで林道に降りられるだろうと気軽に下っていたのだが、最後はどこに消えたか切り明けがなくなって、急な斜面を立ち木につかまってようやく林道に降り立った。

不粋な林道にも、不確かな径からやってきた者には、ほっと気の抜ける安心感はある。朝方と同じく子供の歌を口ずさみがらゆっくり下った。

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