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『山と溪谷』2003年1月号の「小屋番のリレーエッセイ」という欄に書いたものです。私のロッジは山小屋というわけではありませんから、少々趣旨とはずれるのですが、本来書くはずだったどこかの山小屋の人が締切り間際になって「やっぱり書けない」と言ってきたらしく、困った編集部が、短時間でもなんとか文章をでっち上げるだろうと思われている私に白羽の矢を立てたのでしょう。私としてはチャンスなのですから、ホイホイ書いたのは言うまでもありません。どんな文章もあとで見ると気に入らない部分が出てくるもの。この文章にも雑誌に載ったものに手を加えてあります。表題も編集部でつけたのは「山で暮らすということ」というものでしたが、内容にそぐわない感じがするので改めました。

 「ロッジ山旅」事始め
           
山を想うようになったのは、70年代半ば、名古屋の高校生だった頃。本だけを山の教師に、ひとりで近郊の低い山をほっつき歩いた。憧れの中部山岳は遥か遠い空の彼方だった。

ただただ高い山への憧れのみで山梨県の学校へ進んだ。初めてのひとり暮らし。いつでも山へ行ける環境が整ったというのに、突然目の前に現れた一見自由に似たものにころりと参った。せっかく入った山のクラブも早々に辞め、怠惰で放蕩な生活に陥るには時間はかからなかった。

6年かかってなんとか卒業にはこぎつけたものの、就職で頓挫する。教員養成の学校だったが、その柄にあらずと、その時人気の職種の会社を適当に片っ端から受けてみたものの、全滅。社会をなめているような輩を採ってくれるようなところはなかった。

結局、学生時代にアルバイトしていた標高1300メートルの山の中にある、富士の絶景を望む峠の茶店に学生時代のアルバイトの延長のような形でころがりこんだ。山登りとは無縁になってはいたが、山暮しには憧れがあったのは確かだ。自分が美しいと思う場所にはおのずと美しい時間が流れているはずだという、十代の甘い考えをまだ引きずっていた。

だが、どんなに美しい風景の中に職場があろうが、仕事や人間関係にまつわる雑多な悩みは必ずついてまわる。そんな当たり前のことを知っていくのが社会生活というもので、それには町も山もない。むしろ山の中では、周りの自然が美しいがゆえに、自分も含めた人間の醜さががさらに際だったりする。生きていくことはきれいごとではない。 

しかしまた、人はパンのみにて生きるものでもない。心の平穏を保つにはリフレッシュが必要だった。

ところがそのリフレッシュが、8年ぶりに山登りを再開することだったのだから、よくよく私は山から離れられないらしい。

そのきっかけとなったのが、職場の縁でお知り合いになった山村正光さんの『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業之日本社)を読んだことだった。これが、それまでほとんど顧みることのなかった身近な甲斐の山々への開眼と、今に至る巡礼の始まりだった。

山の中にある職場といっても、車道が通じ、通勤ができたから、休日の山歩きには都合がよかった。同じ山の職場でも、一定期間身動きできない山小屋で働くのとはそこがおおいに異なる。

晴れた休日には、当時まだ結婚前だった妻と山へ出かけた。日帰りばかりだったが、地の利を生かして県内ならほとんど行けぬ山はなかった。山遊びの疲れは仕事を邪魔するこことは決してなく、毎日の生活に張りを与えた。仕事も遊びも山の中。山がますます自分から抜き差しならなくなっていった。

山にのめり込んだ多くの人が、山に関連した仕事ができないかと思い、中には実現させる人もいる。はたから見れば、私は山で仕事をしているのだし、すでにそんな生活を実践しているようにも見えただろうが、車で来る観光客相手がほとんどの茶店では、自分の思うような形で山好きな人たちがくつろげる場所を提供したいという思いは満たされなかったし、そもそも雇われの身では自分の好みばかりを通すわけにもいかない。

人の喜びを自分の喜びとするのがサービス業の基本であるが、できるなら、その喜びも山が好きな人たちとともにあればいいと思った。だが、すでに新たな山小屋を建てる時代でもないし、自分にそんな生活ができないことはわかりきっている。どこかの山麓で山歩きのベースとなるような宿はできないだろううか...。再び山に登りだしたころから漠然と頭の隅に置かれた独立への意志は、生来のものぐさゆえ、まるで具体性を持たぬまま、いたずらに年月は過ぎていった。

そんな漠然とした思いを具体的な行動に移したのは、今6才の娘が生まれたころ、すでに茶店で15年働き、様々な澱もたまりにたまって、そろそろもうここには居られないと思い始めたころでもあった。一緒に働いていた妻も私の考えに異存がなかったので、この手の転職につきまとう家庭内のわずらわしさはなかった。

まずは建物がなければどうにもならないが、新築する金などあるはずもない。すでにペンションブームは去って久しく、特にブームの発祥地でもあった八ヶ岳南麓には中古売物件が多くあると考えた。日本を代表するような山々に囲まれ、山登りのベースとするには申し分ないうえに、もともと私の好む山々が多い。そして、確かに物件はあった。

くだくだしい経緯は略すが、都会なら小さな中古の家もさえ買えない値段で売っている物件すら資金のない私には買えなかったし、ブームの終わった商売に金を出す銀行もなかった。残る手段は賃貸しかなかったが、それはどこにでも転がってはいなかった。あらゆる不動産屋を巡り、その結果、なかば諦めかけていたところに、ほとんど偶然といっていいくらいのきっかけで今営業している建物を借りることができた。これもひとつの縁である。幸運というしかない。

私に山登りを再開させた山村正光さんの本や、同じ出版社のいわゆる『山旅』シリ−ズから名前をいただいて、2000年の夏、『ロッジ山旅』は開業した。銀行が金を貸さないわけは半年もしないうちに身にしみてわかった。

それでも、なんという幸運だろう、山村さんはもちろん、横山厚夫さんをはじめとする、『山旅』シリーズに名を連ねる著者の方々や、本に登場する山仲間の方々、そして、これも山村さんがご縁で入会した日本山岳会の方々が次々と訪れてくれるようになったのである。その方々の本で育った私に同じ志向があるのを快く感じてもらえたからだろうか。山と本の功徳というほかない。それだけでも、こんな宿を始めてよかったと思える。苦しい経営でも明るい気分でいられる。

山好きに利用してもらいたいと始めた宿は、結局、その人たちに助けられっぱなしである。私はそれを徳とせねばならない。

美しい場所にはおのずと美しい時が流れるはずだと単純に信じた十代のころの自分を、今は自嘲して半分は嗤う。そして、あとの半分は、やっぱりそうに違いないのだと得心するのである。

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