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 ドノコヤ峠

ドノコヤ峠。2万5000分の1地形図『夜叉神峠』をながめていて、夜叉神峠から南下する稜線上に、峠をまたぐ破線もなく、ポツンとその名だけがあるのを見出したのはもう20年近く前である。この面妖な名前の由来を山梨県の山に詳しい山村正光さんに伺い、「銅の小屋(銅之古家)」が語源だと教えてもらった。峠の西麓に銅鉱山があったことからそう呼ばれるようになったと。

この峠がかつては奈良田峠と呼ばれ、かのウェストンが明治36年に芦安から奈良田へ越えた記述が、彼の『The Playground of the Far East』にあると書けば、がぜん「山書探訪」にふさわしくなるが、私はウェストンの本を読んで興味を持ったわけではないから、これは少々強引なこじつけに過ぎない。だが、この山岳書の古典に出てくるというなら関心をもたれる方もいるかもしれない。

峠に立ってみたいと思った。しかしとうの昔に廃れたという峠路を麓から探しだすのは難しい。そこで夜叉神峠から稜線をたどってみることにした。ドノコヤ峠に至りさえすれば峠路の痕跡くらいはあるだろう。それを探しながら芦安へと降ればいい。

しかしことは容易ではなかった。夜叉神峠から南へ高谷山を越えると径は一気にかぼそくなり、やがて猛烈なスズタケの藪をこぐ破目になった。ようやくたどり着いたドノコヤ峠には、それを示す小さな板切れが木に打ちつけられてはいたが、奈良田側は完全に崩壊、芦安側にも径らしい痕跡は見当たらなかった。

夕暮れが迫っていた。はるか下に白い筋のようなものが見える。双眼鏡でのぞくとどうやら御勅使川に沿って上がってくる林道らしい。あそこまで降りさえすればたとえ暗くなろうが安全だ。地図を調べ、峠の南の突起から派生する尾根を降ることにした。おそろしく急峻な尾根だったが、幸いこの山域に多い崩壊地はなかった。木から木へ飛び移るようにして、暗くなる直前に林道に降り立つことができた。ほっとしたせいか、その後の長い林道歩きも苦にならなかった。両側に山の迫った狭い空から満月の光が射し込み、かたわらを流れる御勅使川が青白く波立っていた。

ドノコヤ峠の名を知って数年後の師走のことである。

それから10年余りが過ぎた2006年秋、『岳人』誌に、地元芦安の有志がドノコヤ峠路を旧芦安鉱山まで整備したとの記事が載って、がぜん興味が再燃した。なにしろ、峠に立ったといっても峠路はまるで歩いていないわけだし、それ以上に、名前の由来となった鉱山跡を見たかった。径もなく場所もはっきりしないのでは行きようがないと諦めていたのである。私は今盛んなものよりは滅びたものに関心がある。最盛期には250人が暮らしたという鉱山跡には何棟かの家屋が朽ちかけながらも残っているらしい。

記事を読んで1年後の昨秋、峠を越えて鉱山跡があるというドノコヤ沢まで降り、『岳人』に載った地図に示された位置付近を歩き回って探したがついに発見できなかった。そこで捲土重来を期してこの4月にまた出かけることにした。

整備されてからたった3年しかたっていないというのに、径はすでに廃れかけている。踏んだそばから崩れていくような地質と、人がめったに歩かないせいだろう。ケモノ道同然かそれ以下である。この冬の大雪のせいか折れている木が多く、それが径をふさぎ、さらには本物のケモノ道も錯綜し、ますますわかりづらい。まったく同じ径筋ではなかっただろうが、ウェストンが「日本の山地でそれまでに経験したもっとも急峻な道であった」と書いている。これは、この山域の危うい地質を言っているのだと思われる。

峠近くなるとザレ場のトラバースが連続する。ロープが張ってあるが、すでに足元の径がほとんど崩れている。すべったらおいそれとは止まらない傾斜だから、そこを避けるため稜線まで山腹を直登し、遠回りしてドノコヤ峠に着いた。そこから見えるはずの白峰は厚い雲の中である。

奈良田側の峠路は、崩壊地を避け、少し南に登ったところから始まっている。それまでにくらべればいく分ましな径をぐんぐん降るが、下にいくほどまた怪しくなる。最後は斜面を半ばずり落ちるような感じでドノコヤ沢に降り立った。

石がゴロゴロして歩きづらい広い河原を、水流を何度もまたいで下流へと歩く。あらかじめあたりをつけておいたのは、去年探した場所よりずっと下流で、果たしてそのとおりだった。去年はうかつにも地図を疑わなかったのである。

石垣が右岸の高みに何段にも築かれ、そこには坑夫の住居があったと思われるが、家の残骸はひとつもない。建物が原形をとどめているのは、少し離れたところにある火薬庫と、その高台にある、所長の住まいだったと思われるわりと大きな家と、小さな社だけである。屋根が地面に落ちている建物が芦安小学校の分校だったのだろうか。


 
所長の家の床に敷いてある新聞紙が昭和20年代のものだとかろうじて読める。小学6年生の粗末な紙の教科書が埃にまみれている。種々雑多な瓶や食器が家の内外に散乱している。マッチ箱大の薬容器がいくつかころがっていて、それには精神安定剤と書かれていた。

いつの間にか雲がとれ、かつては子供が遊んだのだろう、山を削って造られた狭い平地に、芽吹いたばかりの初々しい緑を透かして明るい春の陽ざしが射し込んでいた。遠く沢音だけが聞こえる。静かだ。

人が去り、打ち棄てられた暮らしの痕跡は、生々しいうちは鬼気迫る光景である。昭和も戦後ならまだ生々しい。朽ちるものは朽ち、埋まるものは埋まり、生活の匂いが希薄になって、さっぱりとした遺跡になるには何年かかるだろう。おそらく人の一生分くらいの年数ではないかと私はみている。




参考文献
『岳人』516.517.712 東京新聞
『日本アルプス再訪』ウェストン著、水野勉訳 平凡社

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